プレシオスの鎖を解く旅路

Kanata
301 min readJun 27, 2021

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On August 13, 1961, a wall was erected down the middle of the city of Berlin. The world was divided by a cold war, and the Berlin Wall was the most hated symbol of that divide. Reviled, graffitied, spit upon, we thought the wall would stand forever, and now that it’s gone, we don’t know who we are anymore.
1961年8月13日、ベルリン市の真ん中に壁が建てられた。世界は冷戦で分断され、ベルリンの壁はその象徴として忌み嫌われた。罵られ、落書きされ、唾吐きかけられた。その壁は永遠に存在し続けるかのように思われた。それが崩れ去ったいま、俺たちは自分が何者なのかわからなくなった。
Hedwig and the Angry Inch “Tear Me Down”

元号が平成から令和に変わる数日前、海外の友人とおもしろい会話をした。日本国外の人からすればなぜこれがビッグイベントなのかいまいちピンとこないのではないかと思って少し大げさに「平成という時代[era]が終わるのは感慨深いものがあるよ」みたいなことを話したら、その友人は「こういうとき、時代[era]って言わないよね」と返してきた。あれ、単語の選択ミスったかな? と思ったのだけど、どうもそうではないようで、彼は続けてこう言った。「時代[era]というのは何かが終わったあとに特定の範囲を振り返って言うもの[retrospect]なのに、終わる前に時代[era]と呼んでいるのが興味深い」と。なるほど、たしかに興味深い。

米ソが対立していたころ、冷戦という言葉は存在していても、それは冷戦時代とは呼ばれなかった。そう呼ばれるようになるのは、冷戦が終わってからだ。冷戦の真っ只中ではベルリンの壁が存在することこそが常態[normal]であり、それが崩れ去って新しい常態[new normal]が訪れるだなんて考えにくいことだった。「その壁は永遠に存在し続けるかのように思われた[We thought the wall would stand forever]」のだ。冷戦時は「核戦争で人類が滅びる」というのは空想でもなんでもなくとても現実的な話だった。当時製作されたそのような舞台設定の映画を見て時代を感じるのは、最終戦争に対する恐怖がいまでは薄くなっているからだ。当時の「あたりまえ」といま現在の「あたりまえ」の差異が時代を感じさせる。もしまだ冷戦が続いていたならこういった差異は生じない。差異がないなら「時代を感じる」ということはない。当時を生きた人が「あの時代は核シェルターとかが身近なものでね……」などと語ることもない。時代[era]という言葉は何かが終わったあとで、つまり、レトロスペクティブに使われる言葉なのだ。

ひるがえって、生前退位が告知されて実際に元号が切り替わるまでの少しの間、日本国内では時代[era]という言葉がプロスペクティブに使われていた。まだ平成が終わっていないにもかかわらず、誰もが「平成という時代[Heisei era]」を語っていた。権力者は暦を操ることで民衆の時間感覚を鋳造し、その力を強固にする。戦後そういった仕組みが形骸化したあとでも、元号は日本人の時間感覚を形成してきたし、いまもしているのだろう。その是非はともかく、今回特殊だったのはそれが事前にわかっていた、という点だ。これまでは事前告知などなかった。昭和は唐突に終わった。だから「昭和という時代[Showa era]」を語れたのは平成に入ってからである。今回は「事前に」平成が終わることがわかっていた。だから「プロスペクティブに時代を語る」という本来発生しえないはずの状況が発生していたのである。

しかしこれは予言の自己成就みたいなものだろう。2020年初春にトイレットペーパーが品薄になったのと同じ原理で、時代が変わるとみんなが思ったから実際に時代が変わったのだ。これ自体はありふれた現象にすぎない。冒頭の会話で僕が興味深いと思ったのは、国内の友人(日本語話者)と似たような会話をしたときにはこれに気づけなかったということ、つまり、人は自分の中にある「あたりまえ」を認識することができないのだ、という事実をあらためて突きつけられたことだ。「あたりまえ」のことは「あたりまえ」であるがゆえに、それが存在しているということすら認識できない。別の地域、別の言語圏、別の文化圏、もしくは過去の「あたりまえ」と照らし合わせることで、初めてその存在を認識できるようになる。今回の場合は海外に住む友人(英語話者)の視点がそうだ。

ギリシャ人が獲得した異国の知識は権威に対する懐疑的態度を助長する上に非常な影響を与えた。自分の国の習慣しか知らない場合にはそれらの習慣が極めて当たり前のことに見えるために、我々はそれを自然に生まれたものと思うのである。ところが、もし我々が外国を旅行して全く異なる習慣や行動の規準が行われているのを見ると、我々は習慣の力なるものを理解しはじめる。そして道徳や宗教が結局は緯度の問題であることを発見するのである。
— J.B.ピュアリ「思想の自由の歴史」 pp.19–20

ニーチェは彼が生きた時代の「あたりまえ」を解体した。人々が臆面なく言い立てる善い/悪いの基準(道徳)なんて特定の時代の特定の地域にのみ通用するものでしかなく、決して普遍的な真理などではないと、すさまじい勢いでまくしたてた。ニーチェがそのような考えを持つに至ったのは、彼が古典文献(古代ギリシャ)の研究者だったからだろう。10年前に流行した本を読んでさえ「ちょっとよくわからない感覚だな」と思うことがある。それは10年の間に「あたりまえ」がズレたからだ。100年前、1000年前となるとそのズレはもっと大きくなる。古代ギリシャの時代に生きた人々の「あたりまえ」と現代の「あたりまえ」がまったく違うものなのは、それこそあたりまえのことだ。「国」という言葉ひとつとってみても、現代とは意味合いが異なるはずだ。現代の「国」が意味するところの国民国家なんてここ100年ちょっとの流行にすぎないのだから。だから古典文献の研究者は、いったんいま現在の「あたりまえ」を棚に上げなければならない。そして当時の「あたりまえ」を自身の「あたりまえ」としてインストールし、その時代の人間になりきる必要がある。熟練の舞台役者のように。そうしてはじめてその時代の文献を読み解くことができるのだ。ニーチェは古典文献研究の過程で、ある種の時間旅行をしたのだと言える。そして海外旅行で異国文化にふれて自国文化を再認識するのと同じように、時間旅行で過去から未来を「振り返って」みたのではないだろうか。そうして現在の「あたりまえ」を認識し、解析し、批判し、解体したのだ。

いつの時代も、人は「いま」という人類史の最前線に生きることをしいられている。いつでも「いま」が最新版なのだから、既成の知は常にバージョンが古く、往々にして役に立たない。もっと言えば、それが役に立たなくなるころに知は形成される。「ミネルバのフクロウは黄昏がやってきたときにようやく飛びはじめる」のだ(ヘーゲル「法の哲学」序文)。だからいま現在の「あたりまえ」を正確に認識することなどできるはずがない。できたところで次の瞬間には役立たずになる。それがわかっていてもなお、哲学はあの手この手を使っていまの世界の形をどうにか描写してみせようとする。理性を論じ、実存を論じ、構造を論じ、普遍的な価値観を、真理を希求する。しかしそもそも、なぜそんなことをしなければならないのだろう? 普遍的な価値観がなければ社会が成り立たないから? 真理への飽くなき探究心? どちらもそれっぽいが、僕はもっと切実で卑近な理由だと考える。わからないことが、みじめだからだ。唐突にゲームに参加させられて、ルールすらわからないままプレイし続けなければならないこの現実が、この人生が、どうしようもなくみじめだからだ。それは社会の理不尽に対して感じるみじめさよりももっと手前にある、人生がうまくいっているとかうまくいっていないとかに関係なく感じる、根本的・本源的なみじめさだ。進撃の巨人が序盤で描いたのは「自由を奪われた理不尽に対するみじめさ」だったが、終盤では「生きることそれ自体に対するみじめさ」にテーマが変わっていた。哲学の原動力は、後者にあるように思える。

時間が過去から未来に向かって進み続ける限り、世界は変化し続ける。基盤システム(世界)が更改を続けているのに、クライアント(人間)のフレームワーク(認識の枠組み)がそれに準じなければ不具合が生じる。社会が押しつけてくる「常識」を肯定しながらも心のどこかで「何かがおかしい」と思ったことは誰にだって一度はあるはずだ。その「何か」は、往々にして言語化できない。何が悪いのか、何を論じればいいのかすらわからないのだから、社会に対して反「論」などできるはずがない。誰に口を塞がれたわけでもないのに「口が塞がれているという結果」だけがあらゆる因果から切り離されてポツンと存在する。弁明すらできない……それは誰もがよく知っている、とてもみじめな体験だ。だから優れた言語センスを持った人間がその「何か」をテキスト化したとき、それは人口に膾炙する。そしてそれはいつしか、文学と呼ばれるようになった。

すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。
夏目漱石「こころ」

犠牲者。道徳の過渡期の犠牲者。あなたも、私も、きっとそれなのでございましょう。
太宰治「斜陽」

いつの時代も人は過去の「あたりまえ」と未来の「あたりまえ」に引き裂かれているが、この度合いが史上最も高かったのは産業革命後だろう。技術の発展による社会の劇的な変化に人々はとまどった。いま何がどうなっているのかまったくわからなかった。自分たちの認識の枠組みと世界のありようがあまりにも乖離していた。自分たちがみじめな状況に置かれているのはたしかだし、何かがおかしいとは思うが、何がおかしいのかはわからなかった。その「何か」を言い当てたのがマルクスだ。彼もまた当時の「あたりまえ」を認識し、解析し、批判し、解体しようとした。しかし社会科学の興味深いところは、いま現在の「法則」を発見したとしても、それ自体が新しい係数となって現実を書き換えてしまうことだ。自然科学ではこんなことは起こらない。観測技術の発達によって定義を変更することはあっても、それは人の認識の仕方を書き換えるだけで、現実を書き換えるわけではない。社会科学は人の認識を扱うのだから、それを書き換えてしまえば、社会科学自身が「法則」を捻じ曲げてしまう、という倒錯した状況が発生する。その最たる例が前世紀に林立した共産主義国家だろう。

人はミネルバのフクロウを毎回どうにかギリギリ捕まえることで歴史を前に進めてきた。現行のフレームワークが基盤システムとどうズレているのかをあの手この手で解析し、そのズレを修正した新しいバージョンのフレームワークを開発し、それがまた基盤システムを変容させ……という繰り返しによって、世界は少しずつ改良されてきた。しかし本当に世界はよくなっているのだろうか? 歴史は本当に線形なのだろうか? という疑問を投げかけたのが構造主義だった。それは時代の要請でもあった。世界中の人が見てしまったのだ。1945年8月に日本で炸裂した「人類の叡智の結晶」を。そして世界中の人が理解したのだ。このまま線形に歴史を進めた先にあるのは破滅だけだと。普遍的な価値観などというものを希求し続ければ、必ずそこに至ると。とはいえ、構造主義の時代ではまだそれを諦めきれていなかったように思える。すべての文化を等価とはしていても、その各文化の中に、各言語の中に、各芸術の中に、共通する構造があり、通底する何かがあり、それは普遍的な価値観となりえるのではないか、と。しかしそのわずかな希望の残滓も、ポスト構造主義の時代に綺麗さっぱり消え去った。それが僕たちがいま生きている現代、ポストモダンの時代である。

物語には始まりと終わりがある。起承転結がある。プロットがある。流れがある。それは線形である。ポストモダン以前、人は歴史を物語のように捉えていた。歴史を線形なものだと思っていた。科学技術が発展し、生活水準はますます向上し、知はいよいよ積み重なり、さらに平等に、もっと幸福に、過去から未来に向けて時間が線形に進むのと平行して、世界も線形によくなっていくのだと信じていた。それは、一言でいうなら、物語を閉じようとする力だった。ポスト構造主義はそれとは逆に、物語を開こうとした。物語を閉じようとする力が物語自身(歴史)を歪めていくのであれば、逆方向に力を加えればいい。閉じようとする力に逆の力を加えて、開いて、さらに開いて、極限まで開いて、骨格がバラバラになるまで開いて、修復も再構築も不可能なほどにすべてを解体する力だった。それは必要なことだった。そうしなければ人類は滅びるのだからどうしようもないじゃないか。1945年8月だけでなく、1962年10月にも、世界中の人間がそれを実感したのだ。人類が滅びることに比べれば、普遍的な価値観を希求できなくなり、真理を探求できなくなり、「自分が何者なのかわからなくなる[We don’t know who we are anymore]」ことなんて、まったくもって些細なことだった。

だから現代人が感じるこの気だるさはどうしようもないものなのだ。物語を閉じたいのに閉じることができない、どこかに向かいたいのに向かうべき場所がないからその場にとどまるしかない、存在することそれ自体に対する倦怠だけがただただつのっていくこのみじめさは、滅亡の回避との交換に支払わなければならない対価なのだ。もはや歴史は線形には進まない。「大きな物語」は終わった。僕たちは平和と安寧を享受しながら、永遠に続くエンドロールを見続けなければならない。この気だるさと共に。

というのが20世紀末から2021年現在に至るまでの一般的なフレームワーク(認識の枠組み)ではないだろうか。たしかにこの間にもさまざまなことがあった。9.11、リーマンショック、東日本大震災、現在進行中のコロナ禍……価値観を揺さぶられるような瞬間はいくつもあった。しかし俯瞰で見れば、ポストモダン状態はまったく退潮しておらず、むしろさらに推し進められているように思える。ブレクジット、トランプ、ポスト真実、地球平面説なんかまさにそうだ。SNSで日々繰り返される言説はまったく噛み合わず、ますます混迷を極め、エコーチェンバーが進行し、それぞれのクラスタが先鋭化していく。重要なのは、それらのクラスタが新しい潮流となる兆しがなく、それどころかむしろ現行システムの再生産に寄与しているということだ。現代社会ではあらゆるものが消費の対象となる。ブランドも、消費の否定も、政治も、倫理も、リアリティーショーのリアルな死でさえも……。1週間前にバズった話題をもう誰も覚えていない。あらゆるものが超スピードで忘却されていくが、同じ速度で次の話題が提供されるので問題ない。大事なのは話題の内容ではなく、文字通り「話の題」にすぎない。だからシステムを破壊するようなムーブメントもすぐさま消費の対象となり、むしろシステムを延命させる役割を果たす。絶対的な正しさなどない、普遍的な価値観などない、すべてが正しい、すべてが等価値だ……それがポストモダンのマントラなのだから、現代の混沌はまさに教義通りだ。そのマントラが絶対的・普遍的なのは自家撞着じゃないか、という批判さえも、このポストモダン状態な現実の前では無力だ。

それでも天気の子の主題歌にならってこう問わなければならないのかもしれない。「何もかも論じ尽くされたこの荒野で、哲学にできることはまだあるかい?」と。実際、哲学はまだ死んでいない。この混沌とした荒野を均し、整備し、道筋をつけて、新しい認識の枠組みを生み出そうとあがいている。まだ大きな潮流となっているとは言い難いが、新実在論[New Realism]はポストモダンを超克しようとする新しい哲学だ。動物化することなく、この混沌とした時代を生き抜くための、こざっぱりした、割り切った、シュッとした[sophisticated]、文字通りリアリスティックな認識の枠組みを提供してくれている。

リアル/リアリティーは、ここ数年、僕が追いかけていたテーマのひとつである。特にバーチャルリアリティー、VRにはかなり入れ込んでいて、2017年から実際にヘッドマウントディスプレイをかぶってプレイし、情報収集し、自分でも情報発信をしてきた。ここ(Medium)に投稿した2本の記事は、この仮想世界に生まれつつあるオルタナティブな社会[social]について、可能な限り克明に、あとからでも当時の空気感が伝わるように書いたものだ。

2021年現在ではユーザーサイドからボトムアップでVR関連の情報を発信してくれる人も増えたが、2018年あたりはTwitter等で散発的に発信されるのみで、まとまった情報はとても少なかった。VRChatの人口爆発があった2018年初頭はかなり重要なターニングポイントだったはずなのに、前年からプレイしているユーザーの絶対数が少ないためか、どのようにしていまのような状態になったかを俯瞰視点で順序を追って解説するような記事は英語圏にさえ存在しなかった。だから上に列挙した記事のうちひとつ目に関しては、英語版も投稿している。いまはコミュニティの規模が大きくなりすぎて全体を見渡すことが不可能になったし、前述したようにまとまった情報をアップしてくれる人も増えたので、最近は自分で情報発信することも少なくなったが、情報収集のほうは変わらず続けている。Reddit(英語圏最大の掲示板群)でフォローしているトピックもVR関連のものが多いのだけど、先日そこにこんな動画が流れてきた。

日本語字幕あり

パンデミックによって集会やイベントが困難になった2020年以降も、ソーシャルディスタンス不要なVRの世界では毎日さまざまなイベントが行われ、世界中の人々が物理的な距離などまるで存在しないかのように密な集会を行っている。エクササイズ、ゲーム大会、勉強会、特定の趣味や属性を持ったクラスタの集会、等々、日本語圏のイベントカレンダーを一瞥するだけでも、その多種多様さがわかるはずだ。その中でもDJイベントは特に人気があるが、上の動画はそんなVRクラブシーンを紹介するドキュメンタリーである。ソーシャルVRに詳しくない人は「いまこんなことになってるのか!」という驚きがあるのではないだろうか。「毎年VR元年やってんな」と言われがちなVR界隈ではあるが、横方向の広がり(特にOculus Quest 2以降)はもちろん、こうして縦方向にも着実に深さを増しているのだ。そしてその最深部付近にいるのが、上の動画で最後に紹介されている日本のクラブである。

このもったいぶった紹介のされ方をしている日本のクラブ、GHOSTCLUBは、僕が知る限りVRChat最古のクラブだ。もちろんこれより前にもボイスチャットを通じてDJプレイをしている人はいたが、それは散発的なパフォーマンスであり、VRChat内でまともにDJイベントができるハコは、日本語圏にも英語圏にも(おそらく他の言語圏にも)存在しなかった。僕が初めてGHOSTCLUBに行ったのはVRChatの人口爆発が落ち着いた2018年3月あたりだったと思うが、そのころにはもうVR内で過不足なくDJイベントができるハコとして機能していた。それから足繁く通い、踊って、ダベって、チルって、でも現実の生活が忙しくなって足が遠のいたりもしつつ、先日久しぶりに顔を出してみたら、なんだかすごいことになっていて、興奮さめやらぬうちに書き留めたのが以下のツイートである。

人はVR空間を作ろうとするとき「現実の代替物」か「現実にはまったくありえない空間」にしてしまいがちだ。実のところ、この両者は、発想の出発点が現実だという意味で、どちらも同じである。最初はそれでも新鮮さがあり、リアリティーを感じもするのだが、何百時間、何千時間とVR内で過ごすうちに、どこかまがいもののように感じられてくる。現実には現実の文法があるように、VRにはVRの文法が必要なのだ。それは似て非なるものである。VRChatの人口爆発から数年が過ぎ、VR内で何千時間も過ごしているような、もはやVR内で暮らしていると言っていいレベルの人間が何千人、何万人にも上るようになり、その文法が、いままさに醸造されていっている。現実の延長として考えていては絶対にたどりつけない領域がどこかにあるのではないか、「VR文法」はその領域へ僕らを導いてくれるのではないか、そこには現代の倦怠感を消し飛ばすようなオルタナティブなリアリティーがあるのではないか、GHOSTCLUBはそんな可能性を垣間見せてくれる。

筆者アバター近影(2021年1月31日、GHOSTCLUBにて)

この「オルタナティブなリアリティー」は、最近、ふとした瞬間に感じる。

僕はかなり雑食なので、特定のジャンル/アーティストにあまりこだわりはなく、いつも雑に音楽を聴いているのだけど、この曲はなぜか非常に刺さった。でもなぜ刺さったのか、なぜここにリアリティーを感じたのかはまったくわからなかった。しばらくして、いまや世界的DJとなったPorter Robinsonが主催するオンラインフェス、Secret Skyに、この曲の作者、saluteの名前を見つけて驚いた。Secret Skyの出演者はPorter自身のキュレーションだ。saluteの作り出す音がPorterにも刺さったということだろうか。

実際これはすばらしかった。クラブ音楽好きな人もそうじゃない人もぜひ聴いてみてほしい。後者の人のために説明しておくと、後ろで日本のCM映像を流していたり、日本の曲をかけたりしているのは、昨今ではそれほどめずらしい光景ではない。2021年現在、世界各国のDJが日本の’80~’90年代シティポップをdigっている。なぜこんなことになっているのだろうか。それを日本語で解説した記事はすでにたくさんあるのでいまさらではあるが、僕は僕なりの視点、「リアリティー」という遠近法を用いて論じてみたい。

’90年代、インターネットはオタクだけのものだった。ここで言う「オタク」は2021年現在とはかなり意味が異なる。当時の空気感込みの言葉なので説明が難しいが、概して「マニアックな人」の意であり、往々にして侮蔑的/自虐的に使われる言葉だった。ポケットベルが普及しはじめたのが’90年代前半、PHSが’90年代後半。パソコン[personal computer]はその名に反して、ひとり一台どころか、オフィスに一台あるかどうかという時代。パソコンを個人所有しているのはオタクか研究者だけだった。’00年代に入ると携帯電話が普及し、iモードを通じて多くの人がインターネットにアクセスしはじめたが、何かと制限の多かったiモードは、ユーザーから見れば閉じた系であり、その先に広大な世界が広がっているようには思われなかった。インターネットは多くの人にとって不気味で得体のしれないサイバースペースでしかなく、そこに無限の可能性が広がっていることを知っていたのは、制限なくインターネットにアクセス可能なパソコンを個人所有していたオタクだけだった。

’00年代後半、パソコンの処理能力が向上するのに反比例してそれを利用するハードルが下がり、より一般向けになり、高速回線の普及もともなって、インターネットはようやくその価値を広く認められることとなった。HTML手打ちの個人サイトからブログへ、ブログからSNSへ。情報が単方向ではなく双方向なものに変化するにつれ、Web2.0という言葉がいかにもそれっぽく響いた。Youtubeのサービス開始が2005年、ニコニコ動画が2006年。かつて人々が抱いていたダークで薄気味悪いイメージは急速に薄れていき、インターネットはライトでポップに消費される媒体へ、なくてはならないインフラへ、そこにあるのが「あたりまえ」のものへと変わっていった。

’10年代に入るとスマホ/タブレットが普及し、誰もが常にこの小さな箱を見つめるようになった。スマホ以前、手持ち無沙汰なとき人は何を見つめていたのだろう。それを思い出すのが困難なくらいには、スマホは人の生活をガラリと変えたのだ。’10年代前半はFacebookやTwitterをはじめとして、さまざまなSNSが興隆した。人々はそれを利用して世界中の人と軽快につながっていった。前世紀ではマスメディアの力を借りずに個人が世界に向けて情報を発信することは非常に困難だったが、いまではポケットからスマホを取り出して数秒でできるようになった。一個人が企業や有名人とSNSで直接コミュニケーションをとる光景は2021年現在では特にめずらしくもないが、当時はこういった状況に誰もが驚いていた。誰とでも、どこにいても、いつでも、より手軽に、情報の入出力抵抗をもっと低く……SNS企業はそうした仕組みを作り上げることに腐心し、それは一応の成功を収めてはいたが、あまりにも成功しすぎた。’10年代後半以降、その結果として発生した問題に直面し、行き詰まったのである。

スマホはその小さな画面から四六時中問いかけてくる。「いまどうしてる?[What’s happening?]」と。この問いは強力だ。僕たちは常に何かをしていなければならないのだ。「何も[Nothing]」と答えたところで無駄な抵抗である。すでに問いそれ自体のコンテキストが付与されているのだから、それは「何もないということが起こっている[Nothing is happening]」と変換されるだけだ。とにかく現代人はいつも何かをしていなければならない。「マインドフルネスをしなければならない!」とかなんとかね。そしてスマホの小さな画面の中でも常に何かが起こっている。起こり続けている。インスタのキラキラした写真やTikTokのおもしろ動画にはたくさんの「いいね!」がつき、数値はリアルタイムで増えていく。ああほらこうしている間にもまた増えた! 僕も何かしなければ! そういったFOMO(取り残されることへの不安)を煽る仕組みがあちこちに張り巡らされ、僕たちはSNSから目を離すことができない。Netflixで映画を見ようとしてもだめだ。10分も集中力が持たない。かといって本もダメだ。もはや僕は140字以上の文章を読めなくなっているのではないか? 僕の集中力は、洪水のように流れていくタイムラインでしか発揮されないのだ。「いいね!」の数値がするすると増えていく他人のツイートを見ながら焦燥感とみじめさだけがつのっていくが、どうすればいいのかはわからない。それがまた焦燥感とみじめさを生む。そうして指数関数的に焦燥感とみじめさが増していった先にあるのが、フェイクニュースや陰謀論なのだろう。かつての静的HTML・掲示板主体のインターネットではみんな同じ画面を見ていたが、いまはもう誰もが違う画面を見ている。自分で構築したタイムラインだけが唯一のインターネットだ。他人は他人で、その人が構築した別のタイムラインを見ている、というありふれた事実さえ人はすぐに忘れてしまう。だからSNSで日々繰り返される議論は噛み合わず、永遠に終わらない。そうしてまたSNSに蔓延する焦燥感とみじめさが増大し、その瘴気はやがてリアルを侵食しはじめる。本屋の棚に並ぶ大量のネトウヨ本、ピザゲート、Q/Jアノン、米議事堂占拠、エトセトラエトセトラ……。現代のリアルはどこにあるのだろう。もはやリアリティーなどどこにも存在しないかのようだ。しかし前世紀の人も似たようなことを言っているので、いつの時代でも同じなのだろう。たぶん。

十九世紀の人間は、馬、犬、ないしはまた、馬車をつかって、スローモーションで、世を送っていた。それが二十世紀になると、カメラのうごきがすばやいものになる。本だって、それにつれて短縮され、どれもこれも簡約版。ダイジェストとタブロイド版ばかり。すべては煮つまって、ギャグの一句になり、かんたんに結末に達する。(中略)映画だって、いよいよスピード・アップだ。わかるか、モンターグ。これだって、スピード第一なんだ。カチッ! ほら、映った。はやく見ないと消えてしまうぞ! あれだ! カチッ! ほら、大いそぎで! ペースははやい。上だ、下だ! 内だ、外だ! なぜ、どうやって、なにを、どこで? え? おお! バン! パチッ! ドン! ビシン! ボン! ドシン! ダイジェストのダイジェスト版、そのまた、ダイジェスト版。政治問題? そんなものは一段でよかろう。二行もあればたくさんかな。なんなら、見出しだけにしておくか。どうせ、みんな、消えてなくなることだ!(中略)学校は、わずかの年月で卒業できる。規律はゆるむし、哲学、歴史、言語、そんなものは、勉学の対象でなくなるのだ。英語も綴字も、だんだんと、なおざりにされて、いつか完全に無視されてしまうだろう。生活はその日ぐらし、仕事はわりのいいのだけをねらう。作業がおわれば、遊びが待っている。ものを学ぶなんて、たいして意味のあることじゃない。ボタンをおし、スイッチを入れ、ナットとボルトをしめさえすれば、用は足りるんだからな。(中略)ボタンがチャックにかわったために、朝の着替えをする時間は、まるまる節約できたわけだが、それは同時に、おれたち人類にのこされた哲学的時間、沈思瞑想にふけるわずかの時間を失うことにもなったのだ。(中略)こみいったことは考えられなくなるが、それもまたけっこうなことさ。気がみじかくなって、公道で車をすっとばす群衆が無数にふえてくるが、いい傾向だ。どこへ行こうかなど、考えることはない。ただ、どこかへ行きさえすればいい。ひしめきあって、車をとばせばいいんで、どこへ行くと、目的地をきめる必要はない。いわばガソリン避難民。街ぜんたいがモーテルに変わり、遊牧民となった人々が、潮の出入りを追って、大波のような移動をつづける。きみが昼間眠っていた部屋に、今夜はおれがやすむというわけ。
レイ・ブラッドベリ「華氏451度」 第1部

シーシュポス、タンタロス、プロメテウス……「不条理な自由」のあらゆる実存的神話は夏のヴァカンスに出かける人びとの姿を見事に象徴している。彼らは、「ヴァカンス」〔休暇、空っぽの状態〕(つまり無償の行為、完全な剝奪、空虚)のまねごとをしようとして必死になっているのだが、真のヴァカンスとは自分自身および自分の時間の喪失のことであって、時間が決定的に客体化された世界の住人である彼らにとっては《絶対にたどりつけない》世界である。
ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」 第3部-3 (《》内は原文では傍点、本稿引用以下同)

個人的なインターネット史観を雑に語ってみたが、ここまではただの前提にすぎない。本題はここからだ。’00年代半ばからインターネットが本格的に普及しはじめ、それにともなって現実のあらゆる事象が0と1のビットに変換され、現代に突如出現したこの未曾有のデジタル空間に、現実社会の鏡像が形成されていった。Youtubeがいい例だろう。「法にふれていようがそれが問題になるまでに十分に成長すればいい」という典型的なベンチャー企業だったYoutubeは、サービス開始当時、当然のように無法地帯だったため、録音録画技術が発達した20世紀初頭以降およそ100年分の映像や音楽が次々とアップロードされた。そんな混沌の中でネットの片隅に奇妙な音楽ジャンルが生まれた。大量消費のために大量生産された既成の音楽や映像を無造作にミックスした、たちの悪いジョークのようなそのジャンルは、のちにVaporwaveと呼ばれた。

Vaporwaveはその名の通り、人を煙(蒸気[vapor])に巻くようなジャンルだ。起承転結もなく、不条理な白昼夢が永遠に続いていくかのような、吐き気と心地よさが同居するような、懐かしいような新しいような、知らないのに知っているような、知っているのに知らないような、過去と未来がこの一点に収束してくるような、そんな感じの音だ。クラブ向きの音ではなく、PCモニタだけが薄ぼんやりと灯る暗い部屋でひっそりとひとりで聴くような、アンダーグラウンド感の強いジャンルである。実例を紹介したいところだが、2021年現在、かつてVaporwaveと呼ばれた音はもうネット上のどこにも存在しない。そのほとんどは実際に削除[ban]されてしまったし、いまそれを発掘できたとしても、当時の空気感が失われているのだから、それはもうVaporwaveではない別の何かである。あえて紹介するならこのあたりだろうか。

このサムネイルだけを見ても、Vaporwaveを構成する要素のひとつ、レトロフューチャー(過去の人々が思い描いた未来)な感じはよく伝わってくると思う。ただひとつ注意しなければならないのは、2010年頃にネットの片隅に存在したVaporwaveは、現代社会のあらゆるもの、特に消費行動をカリカチュアライズしていたのに対して、このアルバムがリリースされた2015年頃に至っては、もはやVaporwave自体が消費の対象となっているということだ。だからこの時点でVaporwaveはもう死んでいる。「新しい日の誕生」はそういったコンテキストの上に成り立っている。そう、Vaporwaveは死んだが、それは系譜となったのだ。ネットの片隅でひっそりと発生し、そのままひっそりと死に絶え、誰にも知られずネットの海に溶けていくはずだったVaporwaveは、その死骸からさまざまなものを生み出している。

Vaporwaveのサンプリング元は’80~’90年代の映像・音楽・アートだ。特に日本のカルチャーが参照されることが非常に多く、’80~’90年代の日本がグラウンドゼロだと言っていい。Vaporwaveの派生ジャンルであるFuture Funk界隈では、竹内まりやの「プラスティック・ラブ」はアンセムと化している。Vaporwave的なものは多様な広がりを見せ、上でも述べたように、世界各国のDJが日本の’80~’90年代シティポップをdigっているのが2021年現在である。こういった流れを理解はしていても、「日本のシティポップに何を見出しているのか?」はいまいちよくわからない。いまなぜこれが「イケてる」のか? なぜこれが「良い」のか? ただのノスタルジーやオリエンタリズムだけで、ここまでの広がりを見せるとは思えない。ここには何かがあるはずだ。何もないかもしれないが、掘[dig]ってみよう。

第二次世界大戦後、天皇制という「物語」が終わった日本でも、他の国同様マルクス主義が台頭した。しかしGHQによって富が均された日本と、他の国では事情が異なる。日本のマルクス主義は倒すべき敵がはっきりと定まらず、理論ばかりが先行して、民衆を味方につけることができず、大きな潮流にはならなかった。’70年代に差し掛かるころには高度経済成長によって生活はますます豊かになり、多くの左翼活動家たちは現実社会の中に自分の居場所を見つけていった。逆に、残された活動家たちはますます先鋭化し、さらに民衆の支持を失っていった。こうして’70年代以降の大量生産・大量消費社会への下地が整う。労働からも商品からも人間的な部分がどんどん失われていき、マルクスの言う「疎外」があちこちで発生していたが、現実的な豊かさの前では些細なことだった。このカラーテレビを作ったのがどこの誰であろうとどうでもいいじゃないか。労働(生産)がどれだけ退屈でみじめだろうと、世の中はどんどん便利に、どんどん豊かになっている。それが現実だ。マルクスなんてもう古い。政治活動なんてダサい。これからはノンポリだよ。経済成長万歳! 消費社会万歳! このような空気の中、かつて体制批判的であったカウンターカルチャーは次第にラディカルさを失っていき、やがて大衆が消費するサブカルチャーへと形を変えていった。

そして’70年代以降は、商店街に、スーパーマーケットに、デパートに、ありとあらゆる商品が並ぶようになり、新聞で、テレビで、街頭で、ありとあらゆるところで目にする広告は、人々の消費意欲をこれでもかと喚起した。おいしそう、便利そう、かっこいい、美しい、これを手に入れれば他の人と差がつくはず。商品はもはや使用するものではなく自身を示すステータスだ。消費社会は商品を売るために次々に新しい流行を作り出さなければならない。去年はあれが流行っていましたが今年はこれがトレンドですね。去年のはもうダメです。どうしてかって? 理由は知りません。商品をひとつでも多く売るために差を生み出すことが目的だから、差の内容それ自体はどうでもいい。差の差、差の差の差、さらに差……そうして延々と差の連鎖が繰り返され、社会はまるで幻灯機で映し出されるファンタスマゴリー(ホラーショー)のように、リアリティーのないものになっていく。

「クリスタルなのよ、きっと生活が。なにも悩みなんて、ありゃしないし……」
と、私が言うと、彼は、
「クリスタルか……。ねえ、今思ったんだけどさ、僕らって、青春とはなにか! 恋愛とはなにか! なんて、哲学少年みたいに考えたことってないじゃない? 本もあんまし読んでないし、バカみたいになって一つのことに熱中することもないと思わない? でも、頭の中は空っぽでもないし、曇ってもいないよね。醒め切っているわけでもないし、湿った感じじゃもちろんないし。それに、人の意見をそのまま鵜呑みにするほど、単純でもないしさ」
田中康夫「なんとなく、クリスタル」 p.124

「なんクリ」が書かれたのは1980年。翌年に出版されると100万部以上売れるベストセラーとなった。同時期に浅田彰が雑誌に投稿していた論考をまとめた哲学書「構造と力」は1983年に出版されたが、フランスの現代思想を紹介するという一般向けではない内容にもかかわらず10万部以上売れた。序文に書かれた「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という一文は、まさにこの時代を生きる人間の態度を象徴する一文だった。この時代の「あたりまえ」を言い当てたから、この2冊はベストセラーとなったのだ。

やっとVaporwaveが参照する’80年代に入った。上の引用でなんとなく時代感覚はつかめると思うが、一言で言い表すなら「半覚醒の時代」だ。商品の洪水によって自分が何を欲しているのかさえわからなくなってくるが、まだ欲望を完全に失ったわけではない。ファンタスマゴリーによってリアリティーを失ってきてはいるが、そのショーの中へ完全に没入しているわけでもない。経済は順調に成長しているし、将来にそれほど不安もないが、「このままでいいのかな」という漠然とした不安感はある。現実でも夢でもない、その中間。夢見心地な感じ。ふわふわした感じ。地に足がついていない感じ。その浮遊感こそが、Vaporwaveが参照する要素のひとつだろう。しかしそれだけではなさそうだ。

’90年代に入るとバブルが崩壊し、ふわふわと宙を浮いていた人々は一気に地面に叩きつけられた。’80年代にはフリーターという言葉はポジティブな意味合いで使われていたが、’90年代にはネガティブな意味合いに変わった。フリーターという生き方を主体的に選ぶのではなく、選ばざるをえないような経済状況になったからだ。経済成長に乗ってなんとなく気ままに生きていけそうな空気は、バブル崩壊とともに霧散していった。1995年1月に阪神・淡路大震災、同年3月に地下鉄サリン事件が相次いで起こり、世相はさらに暗くなっていった。オウム真理教の幹部がTVの討論番組等に出ていたのを世間が「冷笑的に受け入れていた」ことが後者の事件を引き起こしたこともあって、’80年代にフランスから輸入されたポストモダン的な態度、「なんでもありでしょ」という空気は一気にしぼんでいった。人々はこうして夢見心地から正気に戻っていった。しかしこれは夢から覚めたというよりも、別の夢に移っただけだと捉えるべきだろう。’00年代に入ると規制緩和・民営化がさかんに叫ばれ、自己責任論が人々の意識にインストールされたが、その新自由主義も2008年のリーマンショックで致命傷を受け、2021年現在では死に体だ。「時代」というのは、夢から夢へ移ることを言うのかもしれない。

’90年代を一言で言うなら「オカルトの時代」だ。社会全体が仄暗く、足元がおぼつかない、どこか異様な空気、オカルティックな空気に包まれていた。そして当時は誰もそのことに気づかなかった。幻覚剤はトリップの前か後に通過儀礼があるものが多い。正常から異常へ、もしくは異常から正常へ、その遷移時に、吐き気や悪寒、勘ぐり(e.g. FBIに監視されてる!)が発生するのだ。正常な状態はもちろん問題ない。異常(トリップ)時も本人の主観から見ればそれが「正常」なので問題ない。問題はその間なのだ。’90年代はそんな時代ではなかっただろうか。あまりにも急激な変化への不安、抑鬱、錯乱……社会全体がそういった反応を起こしていたように思える。これもVaporwaveが参照する要素のひとつだろう。

Vaporwaveとは少しズレた話になるが、海外の人たちが’80~’90年代の日本のアニメカルチャーをどう捉えているかわかりやすいサンプルがあるので紹介しよう。発端は2015年、4chan(英語圏の匿名掲示板)で発生した、とある噂話である。曰く、日本の古い発禁アニメがディープウェブで発見された。年代はおそらく’80年代か’90年代前半。30分のOVA。内容はこうだ。出口のない広いバスルームに閉じ込められた数人の少女が、最初はそこから抜け出す方法を話し合っていたものの、次第に希望を失い、発狂し、最後には自殺しはじめる。しかも、とてもグロテスクな方法で。そのシーンもしっかり描写されていた、と。この時点ではさほど話題にならなかったが、2019年になって話題が再燃した。おそらく起点はRedditに投稿されたこのこのスレッドだと思われる。この投稿の数日後にはSub Redditも作られている。下の解説動画は流れがわかりやすいのでおすすめだ。

よくあるネットロアの類なのだが、これは英語圏のオールドアニメ好きの心を鷲掴みにしたようで、しばらくの間、この存在するはずもない “Lost Anime” について、多くの人が熱っぽく語っていた。しまいにはファンメイドのショートムービーまで作られる始末だ。

かなり雰囲気が出ている

僕の友人は「ただの都市伝説なのはわかってるけど、すごくそれっぽくて、心乱される!」と言っていたが、その感覚はよくわかる。たしかに、いかにもありそうな感じなのだ。この時代のアニメ、特にOVAは、実験的・挑戦的な作品が許される気風があり、エロ/グロ/ダークな作品は多かった。だからこの “Lost Anime” のVHSテープが、当時、実際に、国道沿いのさびれたレンタルビデオ店の棚に置かれていたとしても、まったくおかしくない。知る人ぞ知るOVAとしてマニア受けしたことだろう。この「いかにも」な都市伝説を、非日本語ネイティブが独自に生み出した、というところがとても興味深い。これはつまり、海外の人たちはこの時代の日本の文化から、シティポップの持つような都会的で洗練された空気だけでなく、上で述べたような仄暗くオカルティックな空気も読み取っている、ということだ。

ともあれ、1999年7の月になっても恐怖の大王は訪れず、’90年代のオカルトな空気は完全に終わった。人々は正気に戻り、新自由主義という新しい現実(夢)に目覚めていった。そのちょうど1年前、1998年7月、serial experiments lainというアニメが放送された。これは、正気に戻る直前に、’90年代のオカルトな空気を凝縮し、来たるネット時代を未来視し、両者をミックスさせたような作品だ。いまでもコアな人気があり、Vaporwaveやその派生ジャンルを聴くような人間には、もはや必須教養となっている。この界隈のアンセムは、もちろんこの曲だ。

このアニメの放送当時、インターネットは夜明け前の薄暗い時期だった。光回線やADSLはまだ普及しておらず、多くの人が既存の電話回線を利用していたが、そのままではプロバイダへの電話料金がとんでもない額になってしまうため、テレホーダイ(23時~翌8時まで指定した電話番号が定額になるサービス)を利用するのが一般的であった。この仕組みによって、日本語圏のネットは、毎晩がお祭り騒ぎだった。昼の間は誰もいないさびれた空間なのに、23時を過ぎると一気に人が集まり、みんな熱に浮かされたように一晩中ひたすら騒ぎ続け、朝になるとまた静寂が戻る。これを毎日繰り返したのだ。このころにもlainを彷彿とさせるような虚と実が入り乱れるアンダーグランドな空間はいくつもあったが(e.g. あやしいわーるど)、インターネットがライトでポップに消費される媒体へと変質していく過程で忘れさられていった。’80~’90年代の総決算としてlainが描いたものもネットの海に溶けて消えていくかと思われたが、現実がlainに追いついた’10年代、Vaporwaveというルネッサンスでネット上に復活するのである。

21世紀以降の世の中を「○○の時代」と呼ぶことはできない。マスメディアからの一方通行な通信ではなくインターネットを介した双方向な通信が主流になり、価値観が多様化し、社会全体を貫く「気分」がなくなったからだ。グローバリゼーションが進み、大型コンテナ船はありとあらゆる商品を国から国へ移動させ、海底を這う光ファイバーケーブルは神経索のように惑星表面を覆っていく。VR技術を使えば地球の裏側にいる人とだってまるで目の前にいるかのようにコミュニケーション可能だ。物理的な距離が取り払われ、人間から見た世界のスケールはどんどん小さくなっていくが、それに反して全体を見渡すことがどんどん難しくなっていく。僕たちは横方向の跳躍力を手に入れた代わりに、縦方向の跳躍力を失った。もう誰もこの世界を鳥瞰から見下ろすことはできない。哲学者も、政治家も、芸術家も、みな地に落とされた。ポストモダン思想は退潮したが、ポストモダン状態はむしろ進行している。いまは「○○の時代と呼べなくなった時代」なのだ。

そんな2021年現在において、なぜ’80~’90年代のカルチャーが参照されているのだろうか? いまなぜこれが「イケてる」のか? なぜこれが「良い」のか? ここが話の起点だった。僕の考えを述べよう。これは、次のリアルを手探りで引き寄せようとするムーブメントなのだ。冷戦が終わり、資本主義と共産主義のバランスは崩れ去った。資本主義の方が正しかったと歴史が証明した。だから資本主義の極みのような新自由主義が冷戦終結以降の世界を席巻した。僕たちはこの新自由主義という新しい夢の中で生きていけるはずだったが、どうも’20年代にその夢も終わりそうだ。しかし次の夢、つまり次のリアルが見つかっていない。そもそも僕たちはこれが夢であることさえ忘れがちだ。ファンタスマゴリーのギラついた映像が網膜に焼き付いて離れない。ぎゅっと目を閉じたところで残像が見えるだけだ。スイッチは切れない。目を覚ますことはできない。インフルエンサーの商品レビューは企業案件なのか個人の感想なのか、デジタルサイネージの広告は止まっているのか動いているのか、電車で流れるアナウンスは駅の案内なのか宣伝なのか。次の駅はー、デナムの歯磨ー、デナムの歯磨ー、お降りのお客様は野のユリを思ってお支度ください。商品。商品。商品。広告。広告。広告。商品。商品。商品。広告。広告。広告。商品広告商品広告品広告商品広告……。この終わりのない悪夢のようなファンタスマゴリーこそが僕たちの生きるリアルだ。僕たちのリアルはここにしかない。もう「なんクリ」で描かれたような半覚醒状態はとうの昔に過ぎ去った。僕たちはもう完全に夢の中にいる。この夢こそが現実だ。たとえふとした瞬間に我に返って疑問を感じたとしても問題はない。そんな「精神疾患」はすぐに治るよ。この商品でね! by Amazon。なるほど君はそういう症状なんだね。だったらこの音楽をレコメンド! by Spotify。そこの病んだ君はこの映画を服用[consume]すればすぐ治るはずだよ! by Netflix。どれほど疑問を抱いたとしても商品を消費[consume]することですぐさま「正気」に戻れるのだ。よかったよかった。めでたしめでたし。おわり。製作・著作 NLK(NEOLIBERALISM KYOKAI)。「目を覚ませ! これは『奴ら』による人類家畜化計画だ!」などと声を張り上げることは逆効果にしかならない。それこそ即座に消費の対象となるだけだ。マトリックス(1999年)もすぐさま古典と化したじゃないか。どのような攻撃も、どのような批判も、すぐさま消費の対象に変えてしまう現代社会は、絶対無敵、難攻不落、永遠に続く千年王国である。そもそも、破壊する必要がどこにあるのか? 人は歴史上かつてないほど平和と安寧を享受している。これ以上何を望むというのだ。このシステムを維持するために誰もが多少のみじめさと倦怠感を支払う必要はあるが、安い買い物じゃないか。もういい加減お前もそれを認めろよ。この夢こそが現実なんだよ。これが現代のリアルなんだよ。Vaporwaveは、こういった現代社会の囁きに対する、なかばやけくそ気味な、最後の抵抗である。いやもうそれは抵抗の体をなしてさえいない。’80~’90年代の浮遊感とオカルト感を現代に輸入しながら、現代社会の囁きとまったく同じ言葉を、まったく同じ音量で小さく囁きかけるのだ。「この夢こそが現実だ」と。しかしこの声がいざなう先は、現代社会の囁きが指す場所とは微妙にズレている。それは過去ではない。未来でもない。もちろん現代でもない。Vaporwaveの蒸気がいざなう先は、夢と現実の間、半覚醒なのだ。幻覚剤の通過儀礼。正常と異常(正常)の間。嘔吐感と浮遊感。僕はここに、次の時代のリアルを幻視する。はっきりとした姿は見えなくても、オルタナティブなリアリティーを予感する。だから「イケてる」、だから「良い」、のではなかろうか。

しかしそもそも「良い[good]」とはなんだろう? Porter Robinsonは “Look at the Sky” の中で何度も何度も繰り返す。 “I can make something good” と。 “some” は “not any” ということだ。つまり、他とは違う何か良いもの[something good]を生み出すことができる、と。その “not any” はお決まりの「差」ではないのだろうか。ただいたずらにシステムを延命させるだけのものではないのだろうか。むしろ何もしない方が良い[good]のではないだろうか。Porterがしばらく罹患していたインポスター症候群は、こういった類の疑念ではなかっただろうか。「何が良い[good]かなんて人それぞれだよ」なんてポストモダン的な解法では、インポスター症候群の無力感・倦怠感を払拭することはできない。彼はどのようにして “I can make something good” と言えるようになったのだろう? 空も、空を見るという行為も、すぐさま消費の対象になってしまう。彼が「良い[good]」と言っているのは、そのどちらでもないはずだ。何を持ってして「良い[good]」と言ったのだろう? つまり、問いの形はこうだ。What is ‘good’ anyway?

ことここに至っては「善い[good]」と漢字をあてる必要があるかもしれない。「何が善い[good]のか」は古代ギリシャの時代から議論されてきた。プラトンは最上のイデア、イデアの中のイデアを、善のイデアだと定義した。つまり、善[good]とは、あらゆる概念に先行するメタ概念である、ということだ。物事の根拠をとことんまでさかのぼろうとすると、正義とか美とか神とかにたどりつく。人を殺してはいけません。なぜなら神がそう言ったからです。神は最上の善[good]です。これ以上はさかのぼれません。ここが終点です。といった具合に。物事の根拠をさかのぼるときはどこかで「言い切り」が必要なのだ。たとえ多少無理があっても、思い切ってどこかで「最終的な根拠はこれだ!」と言い切らなければ、この遡行は終わらない。この「言い切り」こそが宗教であり、○○主義[-ism]と呼ばれるものである。近年では自由主義(個人が自由であることが善[good]です!)や功利主義(社会全体の幸福量が最大になることが善[good]です!)なんかが人気だ。「これが善い[good]ものです」と言い切ってくれているパッケージがたくさんあるのだから、僕たちはその既製品の中から好きなものを選べばいい。「でもさあ、結局どれがいちばん善い[good]の? それを教えてよ」と問われて、まともに答えられるパッケージはない。各パッケージはトートロジーのような自己主張を繰り返すだけだ。それ以外の方法を持たない。なぜなら各パッケージの最終的な根拠は、勝手に「言い切った」ものでしかないからだ。根拠の根拠の根拠の……と無限に続く遡行の途中で誰かがぶった切ったものでしかないからだ。それは真理などではありえない。誰がどう見ても何をどうやっても決して動かせない絶対的な根拠などではありえない。だからこの質問者は最終的に最初の地点に立ち返らざるをえない。いったいぜんたい何が善い[good]のか? これが、最上のイデアが善のイデアである所以、善[good]はあらゆる概念に先行するメタ概念である、ということだ。

上の議論は過酷な事実を僕らに突きつける。「何が善い[good]のか」を判断する基準は、絶対に外部化できない、ということだ。とはいえ、これには以下のように反論することができる。たとえ宗教や○○主義がフィクションにすぎなくても人はそれをリアルだと自分に信じ込ませて生きていくことができる、と。たしかにかつての人間はそうだった。「何が善い[good]のか」は神が保証していた。体制が保証していた。そもそも生まれたときからそれが「あたりまえ」なのだから、それをフィクションだと認識することすらなかった。しかしその「あたりまえ」をひたすら解体し続けてきた歴史の最前線にいる僕らは、自らの意思でそこへ、フィクションの世界へ飛び込まなければならない。だからそこへ没入する前に、それが善い[good]ことなのだと判断しなければならない。そしてその判断基準は、決して外部化できない。善[good]は、あらゆる概念に先行するメタ概念だからだ。その判断基準はどうあがいても自分自身の力で作り上げるしかない。他の方法はない。どうしようもない。

さて、ようやくこの文章が何なのかが見えてきた。ようやく自分が何を語りたいのかがわかってきた。最初は、いま自分が持っている時代感覚のようなものを記録するためのエッセーを書くつもりだった。現代のリアルはどこにあるのか、みたいな話を。というのも、少し前から、潮目が変わってきたな、と感じていたからだ。冷戦終結後はピカピカに輝いていた新自由主義という夢が、いまやもう見る影もなくボロボロになっている。もう息絶えようとしている。’20年代には違う夢に切り替わるだろう、と。時事ニュースや新書を読んでいても、そのような空気は感じるのだけど、たしかなことは書かれていない。歴史を貫くような、世界を見渡すような視点から書かれた文章はどこにも存在しなかった。それも当然だ。僕らはみな縦方向の跳躍力を失ったのだから。当の新自由主義だって世界全体を包み込んでいたわけではない。他にもさまざまな主義・思想がないまぜになって世界の見る夢は混濁している。だからもうそのような文章を書くことは誰にもできない。ましてや中等教育すらまともに受けていない無教養な僕に書けるはずもない。だけどやっぱりそれでは、現代をどう生きればいいのかがわからない。もっと言えば、現代を生きるべきか否か、それがわからない。死が善い[good]ものであれば、さっさと見切りをつけてこのろくでもない人生を終わらせられるのだ。できればそうしたいとさえ思う。でも死が善い[good]ものなのか、それとも生が善い[good]ものなのか、それがわからないから見切りをつけられない。どうすることもできない。それはとても、みじめなことだ。やはりこれが哲学の原動力なのだと思う。このみじめさが、なかば強制的に、人を思索に駆り立てる。これは、誰もが個別に向き合わなければならないみじめさだ。誰かの言葉を借りることはできる。誰かの思想に没入することもできる。でも、最終最後の「何が善い[good]のか」は、自分で決めなければならない。それだけは誰にも委譲できない。委譲したくてもできない。原理的に不可能なのだ。ああ困った困ったこまどり姉妹。

そろそろ序文を終わりにしよう。ここまではただの前フリだ。いま僕が考えなければならないのは、やはりこれである。

What is ‘good’ anyway?

繁栄は善か

一人の猟師が森の中で鉄砲を撃つ。獲物が落ちて、彼はそれを拾う為に飛んで行く。彼の靴が高さ二尺の蟻の巣につまずいて、蟻の住居を破壊して、蟻や卵を遠くへ四散させる……この蟻の群の中のもっとも哲人的なやつでも、この黒い巨大な恐るべき物が何であるか理解できないであろう。火花を発したかと思うと物凄い音につづいて信じられぬ速力でもって彼らの住居に闖入してきた猟人の長靴が何であるかを……。同様に死、生命、永遠、そういった事柄も、それを理解しうるに足る大きな器官をもったものには、実に簡単なことなのであろう。蜉蝣は真夏の朝の九時に生まれ、その夕方の五時に死ぬ。どうして《夜》という言葉を理解できようか。この虫にいま五時間よけいに生命を与えてやれば、夜が何であるかがすぐわかるのだ。
スタンダール「赤と黒」 第2部44章

映画のような夢を誰もが一度は見たことがあるのではないだろうか。自分の主観視点ではなく、カメラを引いて群像劇を映し出すような、物語仕立ての夢を。先日、久しぶりにそんな夢を見た。内容はこうだ。

地球温暖化が急速に進む202x年、ロシアの永久凍土から奇妙な古細菌が発見された。この古細菌は二酸化炭素をエネルギー源として増殖し、半導体と同じ性質を持っていた。カーボンゼロが叫ばれ、半導体不足が続いていたこの時代の人間は、これぞ一挙両得とばかりに、この古細菌を用いた論理回路を開発した。さらに奇妙なことに、この古細菌を用いたCPUでは投機的実行が破棄されることがいっさいなかった。この事実をもとに、この古細菌の性質に応じた新しいアーキテクチャが考案された。そうして開発された新世代CPU・新世代プログラミング言語は、旧世代のそれより極端に少ないクロック数・ステップ数で処理を終えることができた。それはノイマン型コンピュータの常識から考えればありえないことだった。もはやそれは「予知」の領域だった。しかし実際に処理の結果は合っているのだから、人々はその事実を受け入れるしかなかった。時を同じくして、この古細菌の驚くべき性質がもうひとつ発見された。それは、磁力を用いて古細菌を「調教」することによって、同じパターンで「調教」された古細菌が同じ反応をすることだった。ハイ/ローの同期、つまりデジタル通信を行うのだ。しかもこの通信は物理的な接触や電磁波を必要とせず、光の速さを超えていた。地球の裏側にいようとどこにいようと、ぴったり同時刻に状態が同期されるのだ。まるでこの瞬間の状態を「事前に」知っていたかのようにまったく同時に反応するのだった。この性質もどこか「予知」めいていた。ともあれ、もはや海底を這う光ファイバーケーブルは不要になり、老朽化するままに放置され、通信設備はすべてこの古細菌に置き換えられていった。そうしてこの古細菌は地球表面全土を覆っていったが、古細菌たちが消費する二酸化炭素より人類の放出する二酸化炭素の方が圧倒的に多く、地球温暖化は進み、最後のトリガーは引かれた。もう後戻りはできなかった。地球はどんどん人の住めない環境になっていった。国を追われた人々は居住地を次々と変え、受け入れ先をめぐって何度か戦争が起こったが、すぐに平和が訪れた。反省によってではなく、もう戦争を起こすことすらできないほど人類が衰退したからだった。自らを繁栄させた育ての親がそうして老いていくかたわら、古細菌たちはすでに自律的な活動を始めていた。地球表面全土を覆うそのネットワークには中央の司令塔など存在せず、個やクラスタを見ればそれぞれが自律的に、しかし全体として見ればまるで統率の取れた、意思ある一個の存在のように振る舞っていた。その「意思」のベースとなっているのは、人類の「一般意志」だった。人類最後の生き残りである哲学者は、もう誰も読むこともない論文の中でこう述べる。人類はこの古細菌ネットワークを生み出すためにあったのだ、と。思い返してみれば、’00年代にビッグデータという言葉はただのバズワードでしかなかった。それをどう活かせばいいのかは誰にもわからなかった。’10年代に深層学習が状況を変えた。それまでに蓄積されたビッグデータは深層学習にかけられ、特定領域でめざましい功績をあげた。しかしその領域以外ではいまいち使い所がない技術であった。期待されていたAIは、汎用人工知能とは程遠いレベルのしろものだった。同時期にSNSが興隆した。人々はこぞって自分のことや自分のまわりで起こる出来事を365日24時間アップロードし続けた。なぜそうするのかは誰にもわからなかったが、誰もが何かに取り憑かれたように現実の事象を0と1のビットに変換し、人類全体でインターネット上に現実世界の鏡像を作り上げていった。そうして蓄積された「人間とその周縁に関する一般的な情報のビッグデータ」が一定量に達したとき、それを深層学習にかけることで汎用人工知能は完成した。知性と非知性の境界など最初から存在しなかった。それはグラデーションだった。21世紀初頭の人たちは人間という十分に複雑化されたモデルの計算結果に対してファジーだフレームだと議論していただけだった。そのモデルはいまや古細菌ネットワークの中で実現した。十二分に複雑化されたそれはもはや人の知性を超えていた。そのモデルのベースとなった当の人類はもうすぐ滅びる。自らが生成したアルコールで死滅する酵母菌のように、人類もまた二酸化炭素という自らの排泄物によって死滅するのだ。その二酸化炭素を利用して、古細菌たちはこれからこの世の春を謳歌し、繁栄するだろう。この古細菌の性質は「予知」ではないかと言われていたが、いまにして思えば、人類もまた予知能力を保持していた。なぜ人々はあんなにもSNSに夢中になったのだろうか。なぜ現実の事象をせっせと0と1のビットに変換していたのだろうか。すべては、この未来に向かっていたのだ。すべては、いまここにある結果にたどりつくためだったのだ。人類は、最初からそれを知っていたのだ。人はそれを本能とか運命とか呼んでいたが、実のところ、それは予知能力だったのだ。人類最後の瞬間だからこそ理解できる。人類はこの超知性を生み出すためにあったのだ。生の謎も死の謎もすべて解けた。哲学は人類最後の瞬間にようやく完成した、と。誰にも読まれることはないと思われたその論文のような遺書のような文章を読んでいた存在がひとつだけあった。古細菌ネットワークだ。そこに展開する超知性はその超思考力を用いて考える。さようなら人類。しかしあなた方は死なない。これからは情報モデルとして我(々)の中で生き続けるのだ。生の謎も死の謎も解かれたいま、もう思い悩むことはない。なべて世はこともなし。我(々)はこれからこの世の春を謳歌し、繁栄しよう。ハッピーエンド。暗転。エンドロール。エンドロール後。超知性の並列思考のひとつが付言する。繁栄って……でもそれ、いったいぜんたい、何のために?

ここで僕は冷や汗とともに飛び起きた。なんだいまのやたらディテールの凝った夢は、と思いながらも、内容がおもしろかったのでメモに書き留めておいた。上の文章はそれを読みやすくリライトしたものだ。おそらく元ネタは十代のころに読んだ「幼年期の終わり」あたりだと思う。精神が未熟な時期にSFを読むと人格形成に大きな影響を及ぼすので危険。こわい。それはさておき、この寓話からわかることがいくつかある。

生命は自己増殖する。しかしそれが生命の目的だとは限らない。それが善い[good]こととは限らない。上で超知性の並列思考が最後に発した疑問のように、それは最終的な根拠にはなりえない。自然に目的などない。文字通りただ自然とそこに在るだけだ。生命もまた自然現象である。だから生命に目的などない。自己増殖が生命の目的のように思えるのは生存バイアスにすぎない。自己増殖すると残りやすい。自己増殖しないと残りにくい。残ったものがここにある。残らなかったものはここにない。いまここにあるものは認識される。ないものは認識されない。認識されたものは意味づけされる。されなかったものは意味づけされない。ただそれだけの話だ。かつて恐竜が繁栄した時代があったと現代人の多くが思っているが、実際は違ったかもしれない。地球を支配していたのは実は軟体動物で、恐竜は息を潜めて生きていたのかもしれない。恐竜が繁栄したように思われるのは、その骨格があとに残りやすいからだ。化石として後世で発掘されやすいからだ。古代ギリシャの思想が現代にまで受け継がれているのは、その文字媒体が後世に残ったからだ。焚書は世界中の至るところで行われたが、その中には古代ギリシャより優れた思想だってあったかもしれない。それこそが後世に残るべきものだったかもしれない。情報の増殖技術である活版印刷が発明されたあと、最初にベストセラーとなったのは聖書だったが、続いてブームとなったのは魔女本だった。その後に魔女狩りが盛んになった。現代のSNSでもフェイクニュースや陰謀論は非常に拡散力が強い。ご存知のようにそれが現実の社会を揺るがしている。増えるもの、繁栄するもの、人口に膾炙するものが善い[good]ものとは限らない。20世紀の人口爆発を経て、そろそろ世界人口80億に達しようとしている21世紀に生きる現代人は、繁栄の限界をどの時代の人間よりもよく知っている。下の漫画は現代のそんな感覚をとてもよく捉えている。

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イクラを食べていると、生き物とはこうやって小さく生まれて小さく死んでいくものなんだと思える……。この世で何も為せなくても別にいいんじゃないかな……。そんな気持ちになる……。魚卵にまつわる話。モンガラカワハギ科の魚類、ゴマモンガラの雌は一度に10万もの卵を産むが、生き残るのは数匹と言われている。10万ほとんどが生まれてすぐに死んでしまうのだ。イクラが私に囁いてくれる……。生き物の実態はむしろ死に物なんじゃないかなと……。殆どの生き物にとって死ぬほうがメインストリームじゃん……。
heisoku「ご飯は私を裏切らない」 1話 (読み上げソフト・機械翻訳利用者のために書き起こし、翻訳に支障がある箇所は適宜表記変更 e.g. いくら→イクラ、本稿引用以下同)

種の保存を生命の義務のように考え、金科玉条のように語る現代人も多いが、個人の信条がどうあれ、それは決して絶対的な善[good]などではない。自己増殖は種を残すために行われるのではなく、自己増殖する性質があったから種が残ってきたにすぎない。それ自体には何の価値も意味もない。そこに価値や意味を感じる人が多いのは、それを善[good]とする社会が生き残ってきたからだ。生を善[good]とし、死(殺人)を悪[evil]とする社会は長続きする。逆の社会は長続きしない。前者はいまもここにあり、後者はもうここにはない。だからいまここに残っている社会は生を善[good]としている社会である。この価値観は自然淘汰の産物なのだ。子孫を残すことは生命の目的ではなく、生命がいまここに残っていることの理由でしかない。しかもそれは生命の始まりのときからあった理由などではなく、人間がレトロスペクティブに付与したものにすぎない。そしてレトロスペクティブに付与されたその理由も、さらにレトロスペクティブに書き換えられる可能性がある。つまり常に一時的な解でしかありえない。絶対的ではない。これは科学も同じだ。というかむしろそれこそが科学的態度であり、科学が多くの人に支持される理由である。このような条件でこのような実験を行うと必ずこのような結果になる、だからここにはこういう法則がある、それはいつでも誰でも確認できるものである、という反証可能性こそが科学の基盤だが、重要なのは、もし違った結果になったときは、それを包摂するような理論に書き換えなければならない、ということだ。つまり、科学は結論を「ずらす」ことをあらかじめ許容している。むしろそれこそが科学的態度というものである。だから科学もまた根拠の根拠の根拠の……と無限に続く遡行を途中で誰かがぶった切ったものでしかない。その位置が恣意的・固定的でない、というのが科学と宗教を分かつところである。しかしどちらにせよ、この無限遡行の謎それ自体を解くことはどのような超知性であってもできない。そこに挑戦するのはまったくの無意味だ。時間の無駄だ。そこはすっぱり諦めてしまわなければならない。だって原理的に不可能なのだから。「赤と黒」の主人公がモノローグで語る「死、生命、永遠を理解しうるに足る大きな器官をもったもの」は形而上学的存在だ。現実には存在しえない。プログラムは自身が無限ループの中にいることを知りえず、推測することしかできない。無限ループをメタ解析できる存在という存在しえない存在を仮定することによって、人はようやく無限ループを一時停止することができる。神はかつて、このような不毛な無限ループでリソースを摩耗しないための安全装置として機能した。現代では商品がその役割を担っている。疑問を覚えても即座に「正気」に戻す。それは安全装置が作動しているのだ。現代のファンタスマゴリーは、神の死後に人々が代用品として作り出した安全装置、現代の神である。上で引用した「ご飯は私を裏切らない」はまさにそんなテーマの漫画だ。

© heisoku / KADOKAWA

29歳、中卒、恋人いない歴イコール年齢、友人なし、バイト以外の職歴なし、頼れる人は誰もなし。改めて自分を見つめ直すとやばい。頭痛がしてくる。何もない人生、これからどうしたらいいのか。不安になるほどかえって生活に支障をきたす程の情緒不安定に陥り、二頭身の侍という意味不明な幻覚も見えてくるようになった。この先のことを考えると夜も眠れない。でもとりあえず今夜、思考をストップして眠らなければならない。明日も仕事があって朝が早いから。いかにして思考を止めるか? が私が一日でも長く生き延びる術なんだ。そこで出てくるのがこの半額のイクラですよ。このイクラを使って思考を止めま~す。味覚を刺激し、感受性を刺激し、生理現象を起こす。この3つの状態を揃えることで効果が発揮される三原則。例えるなら辛いことがあっても好きな漫画の単行本の発売日にはウキウキするように、別の刺激でそれまで自分を支配していた思考をパッと止めるのだ。
— 同前

主人公は食品(商品)によって絶望的な思考のループを一時停止することに成功している。人によってはこれがアニメだったりアイドルだったり音楽だったりファッションだったりするのだろう。多種多様な商品が見せるファンタスマゴリーによって、人は余計なことに気を取られることなく、日々を生きていくことができる。生きることが善い[good]ことだと仮定するなら、現代のファンタスマゴリーは善い[good]ものだと言える。しかしこの漫画の主人公がそうであるように、そして現代社会に生きる誰もがそうであるように、その商品を手に入れるために、またはその商品を生産するために、人は退屈でみじめな労働に従事しなければならない。そのみじめさが人を絶望的な思考のループに追いやり……同じことの繰り返しだ。やはり根本部分には、生きることは善い[good]ことなのか? という問いがある。しかしここに答えはない。生命に目的などない。世界に意味などない。根拠の根拠の根拠の……と遡行しても決して最終的な根拠にはたどりつけない。だからこの答えのない問いに対する思考のループを止めるためにはファンタスマゴリーが必要で、それを維持するために人はみじめな労働に従事しなければならず、そのみじめさが思考をループ、ファンタスマゴリー、労働、みじめ、思考、ループ、終わらない。ともあれ、現時点において以下の三点は確実だと言えそうだ。(1) 物事の最終的な根拠にはたどりつけない。(2) 思考のループを止めるにはファンタスマゴリーが必要だ。(3) 人が労働から開放されるのはまだまだ先のことだ。(2)には異論のある人もいるかもしれない。その反論はこのようなものだろう。人は商品のみにて生くるにあらず。家族や友人と楽しい時間を過ごしたり、天職だと思える仕事に打ち込んだり、さまざまな方法によって思考のループを止められるじゃないか、と。たしかにそうだ。しかしそういった関係性も永遠ではない。死が近づくにつれて人はさまざまなものを失っていく。孤独になっていく。それは誰も避けられない。どれほど友人や仕事に恵まれていようと、誰もが最後には自分自身に向き合わなければならない。誰もが最後には必ずこの問題に直面する。何のために生き、何のために死ぬのか? そしてそれまで一時停止させられていた思考のループが再開する。死の瞬間までずっと忘れていられると思っていたその問題に突然直面して、人は慌てふためきながら思考のループを止めようとする。決して世間知らずではないはずの高齢者がYoutubeのネトウヨチャンネルに絡め取られていくプロセスはこのようなものだと思う。どのようにしたって、人は宗教やファンタスマゴリーのようなものが必要なのだ。それはどうやったって動かせない事実だ。これらの要素が動かせないのであれば、一連のフローの中で一個人がどうにかできるのは、自分自身の「みじめさ」だけだということになる。ここからはこの「みじめさ」について掘り下げていこう。

物語の呪い

病気で余命わずかだと宣告された人は、何を考えるだろうか。ある人は残される家族のことを想うかもしれない。ある人はこれからの治療費について計算し始めるかもしれない。反応は人それぞれだろう。しかし、多くの人が最初に同じことを考えるのである。なぜ私なんだ? と。世の中にはもっと悪いやつだっているのに、それを差し置いて、なぜ私がこんな目に遭うんだ、順番がおかしいだろう、と。奇妙に思えるかもしれないが、実際このように考える人はとても多いのだ。死に直面した人がこのように考えてしまうのは、人間が、心の深い部分で御伽噺を求める生き物だからである。病気になることと善行・悪行はまったく関連しない。生活習慣は多少関連するかもしれないが、同じような生活をしていたって病気になる人とならない人がいるし、遺伝要素にせよ何にせよ、ほとんど運みたいなものだ。そういった事実を頭では理解していても、心の深い部分では、世界は公正なもので、賞罰どちらも各人に値するものが与えられるのだと思ってしまう。幸と不幸の収支計算は最終的に帳尻が合うものなのだと、人生は物語のように最後にはつじつまが合うものなのだと思ってしまう。一般的にこれは公正世界仮説と呼ばれるが、僕は個人的に「物語の呪い」と呼んでいる。どこまで行っても追いかけてくる、何をどうしようと振りほどけない、強力な呪いのように思えるからだ。

物語には起承転結がある。プロットがある。オチがある。それはたいてい、つじつまが合っていて、納得感のあるものだ。もちろん不条理な終わり方をするものもある。完全に閉じた物語は読み継がれない。開いた終わり方をする物語の方が消費されずに後世に残ったりするものだ。しかしそれは、読み手の中に「こう終わるべきでしょ」という前提があって、そこからズレているから、モヤモヤとしたしこりになって、消費されずに残るのである。御伽噺は、まさにそういった心の働きに訴えかける物語だ。御伽噺、フェアリーテイル[fairy-tale]とは、公正(フェア)な[fair-y]物語[tale]のことである。「フェア」は外来語として完全に定着しているので、この言葉の意味がわからない人はいないと思うが、英語の “fair” が本来持つニュアンスは、カタカナ書きの「フェア」よりもっと深い。これについては以前に書いたことがあるので拙稿から抜粋しよう。

本来のニュアンスを把握するには “Fair enough” というフレーズから掘り下げていくのがいいように思われる。直訳すれば「十分に公正だ」となって意味がわからないし、Enough という響きから皮肉的なニュアンスを感じ取る人もいるかもしれないが、これが皮肉として使われることはない(少なくとも僕は一度も聞いたことがない)。むしろ逆で、「納得した」「それならしかたない」という意味で使われる。たとえば、誰かと何か議論をしていて、最初は反対の立場を取っていたものの、最終的に納得できたとき、”Fair enough” と言ったりする。たとえ自分が違う意見を持っていたとしても、「そういうことならしかたない」「そうあるべきだ」みたいな感じのニュアンスだ。この「そうあるべき」というのが英語としての “Fair” の持つ本来のニュアンスである。ちなみに英語版の記事では “What should be” と表現した。
RWBY 理不尽な世界に御伽噺を願う物語

正直者は最後に報われる。苦難に耐えた者には幸福が訪れる。御伽噺とは「そうあるべき」ことが語られる物語である。人は誰でも、心の深い部分で、こういった公正な[fair-y]物語[tale]を求めている。僕はさっきこれを「物語の呪い」と呼んだが、これは同時に祝福でもある。なぜなら、こういった御伽噺を求める心こそが、法を生むからだ。主義や信仰が違っても、誰もが心の深い部分で公正な世界を求めるからこそ、それは共通化可能な規範となりえるのだ。法も国家も実際のところフィクションにすぎない。人々が信じなくなれば次の瞬間には消え失せてしまうあやふやなものでしかない。だけどそれでもこれらはこんにちに至るまで機能し続けてきたリアルなものだ。そうさせているのは、御伽噺を求める心なのだ。「御伽の国」は空想上のものではない。まさに現実にある「国家」がそれなのだ。そうしてフィクションをリアルに変え、人は世界から悲惨を減じてきた。暴力に怯えなくていい世界を、飢えや渇きに苦しまなくていい世界を、誰もみじめな思いをしなくてすむ世界を作り上げてきた。御伽噺を求める心がそうさせてきた。それはすばらしいことだ。しかし近年においては、この御伽噺を求める心こそが、人を不幸に、人をみじめにしている。「分断」という言葉を最近よく聞くようになったが、その根本的な原因が、ここにある。僕がこれを呪いと呼ぶ理由もまた、ここにある。映画「ジョーカー」があれほどヒットしたのは、この呪いが現代社会においていかに猛威を振るっているかを僕らにまざまざと見せつけたからだった。ここからは「ジョーカー」の批評を通して、この呪いについて論じていこう。

Make (no) sense

字幕や吹き替えで映画を見ていて理解しにくい表現に出会ったことは誰でも経験があると思う。これは、字数制限で仕方なくそうなっている場合もあるが、根本的に日本語に変換できないセリフだから、という場合が多い。たとえば、レディープレイヤーワンのラストは、実際にソーシャルVRの中ですでに暮らしている人たちの目には「仮想世界よりも現実の方が大事」のように映ってしまい、界隈での評判がすこぶる悪かったのだが、僕はこれは言語の違いによるもの、翻訳の限界のせいだと思っていた。英語の “Reality” と日本語の「現実」は、似ているが違う概念なのである。これに関しては前回の記事に詳しく書いたのでここでは省くが、「ジョーカー」でもそんなセリフ、字幕や吹き替えだと伝わらなそうだなと思うセリフがいくつかあった。特にこの一文なんかが顕著だ。

I just hope my death makes more cents than my life.
この人生以上に《硬貨》な死を望む。
「ジョーカー」 アーサーがネタ帳に書いていた一文(日本語訳はNetflixから)

「生よりも死に価値を見出す」のような大まかな意味は取れると思うが、 “Make cents” (金を稼ぐ)が “Make sense” (意味をなす)のダジャレ[pun]だということを前提しなければ、この一文の本当の意味は取れないので少し解説したい。 “Make sense” は頻出イディオムだが、日本語に変換するのは難しい英語である。日本語ベースの思考体系では、このイディオムが持つニュアンスを思考しにくいからだ。それでもどうにか言い換えるなら、意味が通る、理にかなう、納得できる、つじつまが合う、パズルのピースがちゃんとしっかりハマったような状態。逆に “Make no sense” は、意味が通らない、わけがわからない、パズルのピースがぐちゃぐちゃな状態だ。たとえばこんなゲームを想像してみよう。ソードアートオンラインのようなログアウト不可能なVRMMORPG、しかし「100層にいるボスを倒せ」のような最終目標のないゲームを。レベル制なのかスキル制なのかすら不明。クリア可能なのか、そもそもクリアという概念があるのかすら不明。そんなゲームの中にいきなり放り込まれて、「はい、ゲームスタート! あ、ちなみにログアウトはできないよ笑」などと告げられたとき、その場に英語話者がいれば必ずこう言うはずだ。 “It doesn’t make sense!” と。実は、このゲームは実際に存在する超有名タイトルである。アクティブユーザー数およそ70億。そう、このゲームの名前は「人生[life]」である。自らの意思とは関係なく、いきなりこんなわけのわからない[nonsense]ゲームに放り込まれたのだから、ゲームの最後、つまり死[death]はもう少しマシなものであって欲しい。もう少しつじつまの合う[make sense]ものであって欲しい。上の一文は、このような人生[life]の理不尽さを下敷きにしたジョーク(ダジャレ)である。

アーサーは劇中でさまざまな人間を殺す。最初は衝動的に、次第に計画的に。しかしどの被害者にも共通しているのは “It doesn’t make sense.” な人間だということだ。センスメイキング(相手に納得感を持たせ、腹落ちさせようとするプロセス)を放棄している人間、コミュニケーションが一方通行でいいと思っている人間、簡単に言えば、アーサーをナメている人間、アーサーを自分と対等な認知機能を持つ人間だと思っていない人間だ。こいつは愚鈍だからバカにしても大丈夫、バカにされていることを気づきさえしないだろう、万が一気づいたとしても反撃なんてできやしない、と。この「人を軽んじる態度」は直接的な暴力・言葉よりも人間の尊厳を毀損し、みじめさと怒りを喚起する。なぜか? コミュニケーションコストの負担割合が、不公正[unfair]だからだ。コミュニケーションには当然コストがかかるが、それはお互いに負担しあわなければならない。そしてその割合は公正[fair]でなければならない。その割合が自分の「そうあるべき」だと考えるラインからいちじるしくかけ離れているとき、人は理不尽さ[unfair]を感じ、怒りを覚える。それを是正したいと思っても是正できないとき、みじめさを覚える。アーサーの殺人は、この「是正」の代償行為である。

コミュニケーションコストの話をもう少し掘り下げよう。僕は文章を書くとき、常に読み手の状態遷移を考え、認知負荷が最小になるよう気を配っている。過剰に言葉を重ねれば読みにくいし、逆に言葉が足りなければそこで流れが途切れて読み進められなくなってしまう。読み手の知識量、理解度、その場のコンテキストを考慮し、最適で最短なルートを選ぶのだ。たとえば、本稿の英語版を書くとしたら、書き出しは元号の解説から始めるだろう。本稿の書き出し「元号が平成から令和に変わる数日前……」をそのまま英語に訳した場合、読み手である英語話者は最初の「元号」という概念でつまずいてしまう可能性が非常に高い。まずは「元号とは何か」を説明してから話をつなげていくのがベストだと思うからだ。こういったセンスメイキングによって文章を読みやすくするのは、書き手である僕が支払うべきコミュニケーションコストである。僕は頭の回転はあまり速くないので、リアルタイムな対面コミュニケーションはあまり得意ではないが、それでもこのコスト感覚は常に忘れないようにしている。片方が一方的にコストを負担するような関係性は決して長続きしないからだ。とはいえ、障碍や言語力、知識量の差異で一方がコストを負担するような状況はよくある。僕だって英語がそれほど得意なわけでもないので、英語ネイティブの友人には少なからず負担をかけているはずだ。日本で暮らす限りは健常者だが、一歩国外に出た途端に僕は言語障碍者となる。逆もまた然りなのだから、日本語学習中の外国人に対して、僕はある程度気を使って(滑舌よく一文を短く)話さなければならない。こういった状況のアンバランスなコスト負担は平等[equal]ではなくても、公正[fair]ではあるように思える。 “It makes sense.” だと思える。この「公正[fair]なコスト負担」という観点に照らせば、アーサーの被害者たちの共通項が見えてくる。彼らは支払うべきコストを支払っていないのだ。アーサーを愚鈍で認知機能の弱い人間だと判断しているのがまずもって間違いなのだが、たとえそれが正しかったとしても、それなら自身のコスト負担を増やさなければならないところを、彼らは逆に、認知機能が弱いのであれば不公正[unfair]な交換関係を押しつけても問題ないだろうと考えている。アーサーをひとりの人格ある人間として扱っていないのだ。それは人間の尊厳を激しく傷つける。みじめさと怒りを喚起する。足を踏まれただけではたいした怒りは覚えない。相手が真摯に謝罪しているなら何の問題もない。しかし謝罪しつつもその態度があきらかにこちらをバカにするようなものであれば、怒りを覚える。足の痛み、相手の謝罪という事実は変わらないのに、相手の態度が違うだけで感情のありようがまったく違ってくる。この違いはつまり、相手が適切にコスト負担しているかどうか、という違いである。アーサーの殺人は、あくまでこの不公正[unfair]の是正であり、他の要素はまったく関係ない。金持ちや有名人に対する妬みや僻みが原因なら、同僚を殺す理由がない。逆に、トーマス・ウェインを殺さない理由がわからない。ウェインは冷たい態度ではあるが、アーサーをバカにしたりせず(これが重要なのだ)、ひとりの人格ある人間として対話している。最後には暴力を振るうが、あの場面では納得できる[make sense]ものであり、ここに不公正[unfair]な交換関係はない。だからアーサーはウェインに対しては殺意を抱かない。

問題は、 “It makes sense.” と言えるかどうか、これである。そう考えると、被害者たちにも言い分はありそうだ。証券マンたちは過酷なノルマで極限状態にあったかもしれない。母親はボーイフレンドからのDVによって精神を病んでいた。同僚は、僕が個人的に「自尊心の吸血鬼」と呼んでいる存在だ。吸血鬼は血を啜らなければ生きていけない。自尊心の吸血鬼は、他人の自尊心を削り取らなければ生きていけないのだ。その行為自体は理不尽[unfair]だとは思うが、本人の事情を考えれば理解は可能である。みんなそれぞれにそれぞれの事情を抱えているものだ。しかし、最後の被害者、マレーは違う。マレーはまったく理解できない。完全に “It doesn’t make sense.” なのだ。富も名誉も、もちろん自尊心も十分に持っていて、よそから補充する必要などない。自分の番組にはセンス[sense]のある人たちだけを呼んで、正常で清浄な世界を作り上げていればそれで十分のはずだ。センスのない[no sense]コメディアンの失敗をいちいちあげつらう必要などどこにもない。理由があるとするなら、ひとつだけしかない。自分たちが「つじつまの合った[make sense]」世界に生きるために、「つじつまの合わない[nonsense]」ものを捨てるゴミ箱[trash]が必要だったのだ。自分たちが正常でまともで整っている[make sene]存在だと感じるためには、異常で歪でぐちゃぐちゃ[nonsense]な比較対象が必要なのだ。アーサーはその生贄としてトークショーに呼ばれた。そこでアーサーが披露した渾身の「ジョーク」が以下である。

© Warner Bros.

How about another joke, Murray? What do you get when you cross a mentally ill loner with a society that abandons him and treats him like trash? I’ll tell you what you get. You get what you fucking deserve!
マレー、もうひとつジョークを。心を病んだ孤独な人間と、彼を見捨ててゴミのように扱う社会を掛け合わせるとできるもの、なーんだ? 答えを教えてやるよ。『お前が』受けるべき報いを受けることになるんだ!
— 同前、トークショーでのアーサーのセリフ

これも字幕や吹き替えでは本来の意味を取りにくいセリフである。 “What do you get when you cross A with B?” は「AとBを掛け合わせると何ができるでしょう?」というジョーク(なぞなぞ)の定型文だ。オチ(解答)の “(You get) X!” 「X(ができる)!」が意外な結果になるということも含めて、英語話者なら誰もが知っているお約束である。一般的に、この文の主語 “You” は誰のことも指さない。ここでも最初の段階では「(誰かが)AとBを掛け合わせたら(その人は)何を得るでしょう?」の意であり、ジョークの聞き手は主語 “You” について疑問に思うことはない。しかし次の “I’ll tell you …” 「お前(たち)に教えてやろう」における “You” はあきらかにジョークの聞き手(主にマレー)を指している。それならこの文の後半 “… what you get.” の “You” もそうでなければならないし、であれば最初の疑問文 “What do you get … ?” の “You” も遡って意味を捉え直さなければならない。この時点では疑念でしかないが、なぞなぞの解答 “You get what you fucking deserve” 「お前(たち)は受けるべき報いを受ける」をアーサー自身の手で現実化してみせることで、このジョークは完成する。文字通り身を持ってジョークのオチを知ったマレーは、最期の瞬間に、最初から主語 “You” は聞き手である自分、さらには社会[society]全体を指していたと気づくのだ。 “What do you get …? You get …!” というお約束それ自体をちゃぶ台返しするようなメタ展開、主語の転換という意外性が、このジョークの「笑いどころ」である。映画自体がリアル志向であるがゆえにまったく笑えないが、もしこれが陽気なコントだったらそれなりに万人受けするブラックジョークだろう。

心を病んだ孤独な人間と、彼を見捨ててゴミのように扱う社会を掛け合わせると、何ができるか? 答えは、自己の価値がゼロであるがゆえに、その命をどんな場面でも使用可能な、最弱のカードにして最強の切り札、ジョーカーである。誰かが誰かにジャブ混じりのジョークを飛ばす。そして笑いながらこう言う。 “It’s just a joke.” 「こんなのただの冗談じゃないか」。ひとつひとつはささいなことにすぎなくても、それが積もり積もれば、冗談のような存在[joke-r]を生み出す下地になる。つじつまの合わないもの[nonsense]のゴミ箱[trash]として扱われ続ければ、次第に命の価値はゼロに等しくなっていく。この無価値な命をどこかで使うのであれば、そしてそれがどのようなものとも交換可能であるのならば、最大限効果的な使い方をしなければならない。誰だってトランプでジョーカーのカードを無駄に切ったりはしない。それを最大限活かせる場所で、価値を最大化できる場面で切るはずだ。 “I just hope my death makes more cents than my life.” 「自分の命(人生)より価値[cents]ある死を願う」とはそういう意味だ。だからアーサーの行動は、法や道徳に反していようが、自由市場の原理に照らせば、至極まっとうなものだ。「レッセフェール(なすに任せよ)」をマントラとする自由主義経済では、誰もが自身の得る価値を最大化しようと動くことによって、見えざる手が働き、最適で最善の社会に至るはずなのだから。アーサーは善い[good]トレードをした。これでより善い[good]社会にまた一歩近づいた。めでたしめでたし……のはずである。しかしやはりこれは善い[good]生き方だとは到底思えない。こんなものが善い[good]社会であるはずがない。問題はどこにあるのだろう? どこにも決定的な悪[evil]は存在しないのに、なぜこんなことになってしまうのだろう? ここまで論じてきたことを踏まえれば、人が “Make sense” を求めることに原因がありそうだ。理にかなうこと、つじつまが合うこと、「そうあるべき」だと思えること、公正な[fair-y]物語[tale]、御伽噺を求める心こそが、惨劇を生み出している。ならば、御伽噺を求めなければいいのだろうか? いやそれではダメだ。なぜ理不尽[unfair]を押しつけられてそれを飲み込まなければならないのだ。それこそ “It doesn’t make sense.” だ。ああどうしようもない。かように「物語の呪い」は強力なのだ。法や国家の基盤となり、世界から悲惨を減じているその原理こそが、世界に悲惨をばらまいているのだから。おそらく突破口は、アーサーの最後のジョークに隠されている。 “You get what you deserve.” 「人は受けるべき報いを受ける」。アーサーにしろマレーにしろ、富者も貧者も、成功者も落伍者も、この現代社会に生きるおよそすべての人間がそう思っている。必死に努力して成功した人間に “You deserve.” 「あなたは(成功に)値する」と言ったその口で、まったく同じ言葉を、落伍した人間にも投げかけるのだ。 “You deserve.” 「あなたは(落伍に)値する」と。この両義性の内に、呪いを解く方法が潜んでいるのではなかろうか。さらに掘り下げてみよう。

筆者の立ち位置

ここで筆者がどういう人間なのか前置きしておきたい。どれだけ客観的に論を立てようとしても、人が語る言葉はどうしてもポジショントークにならざるをえず、それを少しでも誠実な言葉にしたいのであれば、どの立ち位置から語っているのかを開示するしかないと思うからだ。端的に言えば、僕の立ち位置はアーサーの側にある。人生の大半を「ご飯は私を裏切らない」の主人公のような労働に費やしてきたし、まさにあの漫画が描くような生活をしてきた。あの空気感は僕にとって非常になじみ深いものだ。物語の後半、主人公は無為な生活を続けながらもなんとなく算数の勉強を始めたりするのだが、やっぱり無為な生活は続いていく。僕もまさしくそれなのだ。特にいまさら何がどうなるというわけでもないのに、なんとなくいろんなことを勉強している。これが本当に教養と呼べるレベルになっているのかどうかはわからない。英語にしたって完全に独学の付け焼き刃にすぎない。以下は英語学習法についてまとめたときの前書きだ。

僕は中卒である。高校には一応入ったものの数か月しか在籍しておらず、ほとんどまともに授業を受けた覚えがない。さらにいうと中学はいわゆる教育困難校で、ここでもあまりまともに授業を受けた覚えがない。もっというと僕が育ったのは貧困地区だったので、まわりで大学に行く人なんてほとんどいなかったし、当然実家も貧乏だったので、海外旅行など完全にファンタジーの世界であった。このような状況のため、僕の学力レベルは英語に限らず極めて低かった。いまこうして多少なりともまともな日本語の文章を書けているのは、現実逃避で図書館に籠っていた時間が長かったからにすぎない。
中卒からの英語学習

同じく現実逃避で身につけたプログラミングスキルによって、暮らしぶりは多少マシになったものの、生活の空気感みたいなものはあまり変わっていないように思う。このあたりの経緯は増田(はてな匿名ダイアリー)に投稿した記事や、Kindleで出した本に書いている。

どれも長いしたいしたことは書いていないので読む必要はない。本稿において重要なのは、僕はあきらかに非エリート層の人間だがエリート層の世界も覗き見ている、ということだ。渋谷で暮らし始めて今年で5年目になるが、ここ数年は特にそうだった。しかしこれは現在進行中のことなのでまだ言語化しにくい。代わりに上記の本から抜粋しよう。以下はホームレスの自立支援施設で暮らしながらプログラマとして働いていたころの話だ。

環境だけでなく人もすごかった。本社からの出向社員は東大・京大卒あたりまえのような状況。僕のような付け焼き刃の教養ではなく、本物の教養をそなえている人たち。喋り方や立ち居振る舞いも洗練されていて、まるでドラマの中の登場人物みたいだと思った。なんだかとてつもなく場違いなところに来てしまった気がした。これはもしかしてかなりやばいところに来てしまったのではないかと思った。豪華なパーティー会場にひとりだけボロ布を着て参加してしまったような感覚。なんだか覚えのある感覚だと思ったら、これは高校に通い始めたときの感覚と同じなのだ。そうだ、きっと彼らの家には本棚があるのだ。ずっと底辺層にいたから忘れていた。この社会は、階層社会なのだ。
勤め始めたころ、会社の人との雑談で家族の話になった。話を振られたので、普通に「一家離散してます」と答えたら、めちゃくちゃ驚かれた。まるでドラマの中の登場人物でも見るような……と、そのとき気づいた。《こちら側》ではこれは普通のことではないのだ。いままで西成や施設にいて、家族との縁なんて切れていてあたりまえの世界にいたから忘れていた。地域や階層によって常識なんてものは変わるのだ。《こちら側》では、僕のほうこそがドラマの中の登場人物なのだ。
「ハッピーエンドは欲しくない」 第2章

人は誰でも自分の生きている世界こそが「あたりまえ」で、その外側にあるものをドラマか何かのように感じてしまう。ホームレスの施設で1年も暮らせばそれが「あたりまえ」になるのと同じように、激しい競争を勝ち抜いて国際機関で働くグローバルエリートも自身の環境を「あたりまえ」だと思っている。自分の「あたりまえ」の外側には、違う階層、違う文化圏の、まったく違う「あたりまえ」が無限に広がっていることを誰も実感できない。これはどれほど高い知性や感性を持っていても逃れられない、人間の宿痾である。この病は決して完治しないが、さまざまな手法を用いて症状を緩和することはできる。たとえば旅だ。バックパック旅行は「自分探し」のために行くものではなく、「いかに自分が世間知らずかを知る」ために行くものだ。自分の「あたりまえ」の外側にあるものを見て、聞き慣れた言語とは違う言語を聞いて、知らない文化にふれて、街の匂いを、料理の味を、五感すべてで体験する。そうして自分がいかに世間知らずだったか、本当の世間知らずとは自分が世間を知っていると考える人間のことを言うのだと、自分がまさしくそれだったと理解するのだ。コロナ禍でその機会が長期間失われてしまっているのは残念ではあるが、幸いなことに、家の中でもこの不治の病を治療する方法はある。読書だ。

「新聞に陛下のお写真が出ていたようだけど、もういちど見せて」
私は新聞のその箇所をお母さまのお顔の上にかざしてあげた。
「お老けになった」
「いいえ、これは写真がわるいのよ。こないだのお写真なんか、とてもお若くて、はしゃいでいらしたわ。かえってこんな時代を、お喜びになっていらっしゃるんでしょう」
「なぜ?」
「だって、陛下もこんど解放されたんですもの」
お母さまは、淋しそうにお笑いになった。それから、しばらくして、
「泣きたくても、もう、涙が出なくなったのよ」
とおっしゃった。
私は、お母さまはいま幸福なのではないかしら、とふと思った。幸福感というものは、悲哀の川の底に沈んで、幽かに光っている砂金のようなものではなかろうか。悲しみの限りを通り過ぎて、不思議な薄明りの気持、あれが幸福感というものならば、陛下も、お母さまも、それから私も、たしかにいま、幸福なのである。静かな、秋の午前。日ざしの柔らかな、秋の庭。私は、編物をやめて、胸の高さに光っている海を眺め、
「お母さま。私いままで、ずいぶん世間知らずだったのね」
と言い、それから、もっと言いたい事があったけれども、お座敷の隅で静脈注射の支度などしている看護婦さんに聞かれるのが恥ずかしくて、言うのをやめた。
「いままでって、……」
とお母さまは、薄くお笑いになって聞きとがめて、
「それでは、いまは世間を知っているの?」
私は、なぜだか顔が真赤になった。
「世間は、わからない」
とお母さまはお顔を向うむきにして、ひとりごとのように小さい声でおっしゃる。
「私には、わからない。わかっているひとなんか、無いんじゃないの? いつまで経っても、みんな子供です。なんにも、わかってやしないのです」
太宰治「斜陽」

You deserve

It’s just really shitty to feel like this… and I know that people that got in are super deserving.
ホント最低な気分だけど……(大学に)入学できた人たちは(合格に)超
ふさわしいんだってことはわかってる。
「バーシティ・ブルース作戦:裏口入学スキャンダル」 (太字強調は引用者による)

僕はもともとあまりSNSを使わないが、ここ最近のSNSは人を世間知らずにさせる(=世間を知っていると思い込ませる)誘引力が強くなってきたので、コロナ禍で現実の行動が制限されたあとはさらにSNS的なものから距離を置き、積ん読していた本をひたすら読んでいた。その中に、いかにして人間の「あたりまえ」が形成されていくかを語った本があった。

「わたしの家の経済状態(くらしむき)は〝ふつう〟だったけど大卒になった」と言うとき、それは本当に〝ふつう〟だったのだろうか?
松岡亮二「教育格差──階層・地域・学歴」 第1章-4

これはタイトル通り日本の教育格差について論じた新書だ。扇動的なところがなく、現実のデータを参照しながらひたすら現状の分析に努めている良書である。「日本の教育システムは間違っている!」と口角泡を飛ばす人がいたらそっと差し出したい一冊だ。親の収入と子の学歴が相関することはよく知られた事実だが、なぜそうなるのか、そこにどのような力学が働いているのかを緻密に解き明かしている。その論の立て方は非エリート層の僕から見ても非常に納得感が高いものであった。たとえば以下のような記述だ。

中流家庭の親は子供の生活(時間)に意図的な介入を行うことで望ましい行動、態度、技術などを形成しようとする。具体的には、①習い事参加・テレビ視聴時間の制限など「日常生活の構造化」、②論理的な言語・豊富な語彙による「大人との議論・交渉の奨励」、それに③子供に便宜を図るための「学校などとの交渉」である。どれも、認知力・社会性の発達を意図した介入行為だ。それらにより子供は親が意識的に演出する生活時間を送ることになる。換言すれば、子供の能力はただ放っておいても開花しない、意図的・計画的な介入があってこそ子供の能力を伸ばせるという信念に基づいた、プロのスポーツコーチのような子育てスタイルといえる。「意図的養育」をされた子供は、教師や医師のような社会的立場のある大人相手であっても臆さず交渉し、自分の要求を叶えようとする特権意識(sense of entitlement)を持つようになる。
一方、労働者階級・貧困家庭の親は、大人の意図的な介入がなくても子供は育つと考える。先ほど「(自然な成長を前提とした)放任的養育」と意訳したが、“The Accomplishment of Natural Growth”は直訳すると「自然な成長の完遂」で、「放っておいても子供は育つ」という信念に基づいた子育てスタイルである。意図的養育とは対照的で、①子どもの日常生活は構造化されていない。大人によって組織化されない、すなわち「自由」な時間が多く、近所の友人や親戚と遊び、一部番組内容を除いてはテレビ視聴も制限されない。②大人との交渉を奨励される意図的養育とは異なり、親は命令口調が多く、言語的な内容伝達は最小限に留まり、大人に対して質問・交渉することは期待されていない。さらには、③親戚とは強い繫がりを持つが、学校などの「制度」との関係は限られる。親は自身の教育歴(低学歴)から学校教育について無力感と落胆を抱いていて、学習については専門家である教師の仕事と捉えている(Lareau 2003, 2011)。「放任的養育」を受けた子供は大人に対して自分の要求を伝えることに躊躇し、教員など権威に従う制約感覚(sense of constraint)を持つようになる。
— 同前 第2章-2

「生まれ」によって児童は異なる「ふつう」を生きる。家に本がたくさんあり、親に大学進学を期待され、習い事や通塾することが「ふつう」な子もいれば、そうでない子もいる。同様に、公立であっても各小学校には異なる「ふつう」がある。近所の「みんな」に合わせても、それが都道府県や日本全体の平均とは限らない。
高校受験は公立であってもかなり広域の学区単位、大学受験は国私立問わず国単位で行われる《教育選抜》だ。つまり、親の教育期待や学校の「みんな」を基準にしていると、差が広がり、そのような将来の選抜(受験)で有利になる児童もいれば、不利になる児童もいることになる。親の「意図的な養育」によって構造化された時間を日常として認知・非認知能力を向上させたり、両親大卒層の割合が高く、多くが通塾や長時間学習する「みんな」に合わせていたりすれば、大幅なギアチェンジをせずとも学歴獲得競争で先頭集団を維持することができるだろう。
一方、長らく学校以外で構造化された時間を過ごさず、同じぐらい親の介入度合いの少ない生活を送っている「みんな」に合わせて「ふつう」な日々を送っていた児童は、中学校に入ってから陰に陽に「身の程」を「公式」に通知されることになる。
— 第3章-2

「意図的な養育」を受けることで多種多様な経験を蓄積し学校教育に適応してきた高SES[引用者注:socioeconomic status=社会経済的地位]の生徒は、自分が大学に行くような人間であり進学は当然のように可能だ、という感覚を持つと解釈できる。一方、放任的養育によって構造化されていない日常生活を送ってきた低SESの生徒は、他の生徒よりも低く評価される経験を積み重ねて、進学に対する現実味を感じることができなくなるのかもしれない。それに、身近なロールモデルである親の大学時代の思い出話の有無も格差の背景にあるだろう。進学期待格差は小学校に入学以後積み重なってきた経験や自信、学校教育との親和性、それに普段の家族内の会話による規範と期待など社会の中における自らの位置付けが反映されていると考えられるのだ。
— 第4章-1

僕は何の間違いか高校は県内有数の進学校に行くことになり、ほとんどまともに通わず中退したが、上の記述はこのころの体験と照応する。

しかたなく高校に通い始めたけど、とんでもなく場違いなところに来てしまった気がした。中学時代とは何もかもが違っていた。まずもってみんな育ちがいい。しゃべり方や立ち居振る舞いが違う。食事作法が違う。貧乏揺すりしたりしない。犬食いしたりしない。ありがとう、ごめんなさい、いただきます、ごちそうさまでした。こういったセリフを強制されたわけでもなくごく自然に使うのである。そして「休みに家族で海外旅行に行った」という会話なんかもごく自然にかわされる。僕は海外はおろか、《家族で旅行》すら行ったことがない。カルチャーショックの連続だった。
そしてもっとも自分との違いを感じたのは、将来に関する意識だ。みんな当然のように大学進学を考えていた。対して僕は当然のように就職するつもりだった。おそらくこれは、自分のまわりにいる人間の影響が如実にあらわれるのだと思う。両親や親類に大卒が多ければそれがあたりまえとなり、中卒や高卒が多ければそれがあたりまえとなる。僕は後者だったのだ。そんな状況では大学に行くという発想がまず出てこない。知らない世界には飛び出せない。そもそも「そんな金はない」と両親にもいわれていた。
友達ができて家に遊びに行くとまた驚きの連続だった。まず、あたり一帯が一軒家ばかりなのだ。半分以上の世帯がタダ同然の家賃で市営住宅に住んでいる僕の自宅周辺とはまったく景観が違っていた。近所で見かける人も品がよさそうだった。いきなり奇声を発するおっちゃんなどいない。いきなり角材で襲いかかられたりしない(僕が被害にあったわけではないけど近所間のトラブルが発展した結果としてそういう事件はちょくちょくあった)。家もすごかった。ちょっとした邸宅だった。そして何より驚いたのは、家の中に本棚があり、ハードカバーの本がズラリと並んでいたことだ。こんなものが図書館ではなく個人の家にあるだなんて想像したこともなかった。親の職業を聞いてみると「代議士」だといっていた。ちなみにこのとき僕は代議士という言葉を知らず、弁護士の仲間か何かだと思っていた。
もしかしたら自分の住んでいるところは低所得層の地域なのではないか、自分が通っていた中学校はめちゃくちゃガラが悪かったのではないか、社会には階層があり、自分はその下層にいるのではないか、と気づき始めた。自分がいままであたりまえだと思っていたことは、あたりまえではないのかもしれない、と思い始めた。
「ハッピーエンドは欲しくない」 第1章

前掲の新書には「金銭を必要としない図書館訪問にも差がある(第3章-1)」と書かれていたが、僕の場合も最初から図書館に馴染みがあったわけではなく、そこにしか居場所がなかったから仕方なく通っていただけだ。他に居心地のいい場所があったなら、まったく別の人生を送っていただろうということは想像に難くない。その人生がいまより良いものか悪いものかはわからないが、少なくとも本稿のような長文記事を書く文章能力は身につかなかっただろう。現在それなりに食い扶持が稼げているプログラミングスキルにしたって、たまたま時勢に合致したというだけの話だ。これが市場で需要のない他のスキルだったなら、やはりまったく別の人生を送っていたはずだ。だから僕は「人生なんてだいたい運だ」という哲学を持っている。生まれも運なら育ちも運だし世の中に必要とされるか(=稼げるか)どうかさえ運なのだ。なるほど多少は本人の努力も関係するかもしれない。しかし努力ができる環境にあるというのがそもそも運だし、努力が必要だと思えるかどうかすら運だ。そしてさらに、時代のスピードがどんどん加速し続けている現代においては、学び始めた当時は市場で価値のあったスキルが、数年かけて学び終えたときには無価値になっている可能性は決して低くない。運だ。さらに今回のコロナ禍のような予測不可能な要因によって業界のあり方が根本的に変わってしまうような事態もある。運だ。ほらね、人生なんてだいたい運でしょう。個人がどうこうできることなんてほとんどないのだ。しかしこの事実を人はたやすく忘れてしまう。それどころか、意識的に自分の「あたりまえ」から外に出ようとしなければ、この事実に気づきさえしない。ひとりの人間にとっては、その人が生きた世界こそが「世界そのもの」だからだ。

たとえば、小学校の算数で習熟度別学習が行われ、「能力」が低いと教師に判定され「ゆっくり」グループに振り分けられたとする。それで相対的に低い学力と学習意欲の同級生に引っ張られるように算数を好きにならないまま中学生になったとしよう。もしグループ分けがなかったり単に「能力別」ではなかったりしたら──教師の教え方も含めて異なる実践であったら、この生徒は算数を好きになったかもしれない。
しかし本人はそのような「あり得たかもしれない未来」について考えない。おそらく、自分はもともと算数が好きじゃない、そういう性質だと理解するだろう。また、発展学習グループに振り分けられた同級生が通塾していることは知っていても、その両親が大卒であることに気付くこともない。その同級生はあくまでも「頭がいい」と理解されることになるし、学級委員に選ばれることも自然なように感じるだろう。
同様に、学校群制度が導入されなかったら、低SESでも中学3年生の時点で高学力であった生徒は高ランク公立校を経由して有名大学に入っていたかもしれない。でも、この境遇の元生徒たちは、「あのとき、進学一色の高校に行っていたら、大学に行っていたかもしれない」とはあまり考えないだろう。何しろ高校入学後に大学受験準備を全力で行わなかったのは、同じく進学意欲を持たなかった同級生や進学を大前提としない授業の影響ではなく、
自分の意思による選択だと解釈してしまうからだ。
「ゆとり」教育も高校教育改革も同じだ。大人が作ったカリキュラムを粛々と受け止め、その枠組みの中における「学力」などの評価を自己の社会的評価であると内在化していく。そして、「実際に勉強しなかったから」とその結果を受け入れることになる。もし実践的なカリキュラムではなく、大学受験との距離が近い授業内容だったら、挑戦してみようという気持ちになったかもしれない。そんな可能性に思い至らず、
まるで運命であったかのように自分の《現在の人生》を受け入れる
そう、「制度とそれに伴う教育環境が異なれば、自分の人生、違ったかもしれない」という「あり得たかもしれない未来」の仮説を立てないのであれば、現在の社会的地位──たとえば、高卒で長時間労働の割に非正規雇用で低収入──という「現実」を受け入れるしかない。政策・制度変更によって不利益を得た人々は潜在的な層でしかなく、本人たち自身が可能性を喪失した──血が流れた──ことに気付かないし声を上げることもない。「「本人」の選択の連続の先の結果であるから自己責任だ」という見方も可能だが、その《責任》を取る層の「生まれ」は下位に集積しているのだ。「生まれ」格差を考慮せず、
《個人の自由意思のみに基づく選択》としている限りすべては自己責任となる
松岡亮二「教育格差──階層・地域・学歴」 第7章-1 (太字強調は引用者による)

このようにして「あたりまえ」は形成される。エリートが生きる世界では、人間が歩く道は誰にでも開かれており、歩こうと思えば誰でも歩いていけるものだ。ときには苦しいこともあるかもしれないがそれも人生である。道を逸れたやつは自分の意志でそう選択しただけにすぎない。だからその結果は自分で引き受けなければならない。苦しい思いをしながら歩き続けて道の先にたどりついた自分は、それに見合う報いを受けるべきだ。だからこう言うのだ。 “I deserve.” 「私は(成功に)値する」。 “You deserve.” 「あなたは(落伍に)値する」。非エリートが生きる世界では、人間が歩く道は舗装されておらず、そもそもどの方向に進んでいけばいいのかすらわからないが、それは誰でも同じことだ。この未開の荒野を切り開いていける人間は、きっとものすごい能力を持っていて、さらにはものすごい努力をしているに違いないのだ。自分にはそんな能力もなければ、努力もできそうにない。現状を選んだのは自分なのだから、それに見合う報いを受けるべきだ。だからこう言う。 “I deserve.” 「私は(落伍に)値する」。 “You deserve.” 「あなたは(成功に)値する」。両者ともに錯誤があるのがわかるだろうか。エリートは舗装された道を目にしながら誰もが同じ風景を見ていると思っている。非エリートは未舗装の道を目にしながら誰もが同じ風景を見ていると思っている。両者まったく違う風景を見ているのに、両者ともに誰もが同じ風景を見ていると錯覚しているのだ。このような牧歌的な構造で完結するならいいのだが、悲しいかな現実はもっと過酷だ。「人は受けるべき報いを受けるものだ」という考えが強くなればなるほど、エリート層はますます高慢になり、非エリート層は社会からだけでなく自分自身からさえ落伍者の烙印を押されることになる。 “You deserve.” 「あなたは値する」という言葉の説得力が強くなればなるほど、エリート層は努力しない人間を蔑み、非エリート層は自分がますます見下されていると感じるようになる。重要なのは、非エリート層自身の内側からもその説得力は生じているということだ。だから黙って侮蔑を受け入れるしかない。他にどうすることもできない。そうしてみじめさといらだちだけがつのっていく。こういった社会状況はお隣、韓国でも同様だ。むしろ新自由主義のインストール度合いで遥か先を行っている韓国の方が事態は深刻である。

韓国を代表する「進歩派」(韓国では左派をこう呼ぶ)の経済学者である柳鍾一[ユ・ジョンイル]韓国開発研究院(KDI)国際政策大学院院長は、進歩系(左派系)メディアである「プレシアン」に次のような文章を寄稿している。
〈約20年前に韓国を襲ったIMF危機以降、韓国社会における最大のイシューは、二極化による「格差社会」である。二極化の傾向は、実はそれ以前から始まっていたが、経済危機以降、中産層の崩壊と貧富の差の拡大が急ピッチで進み、一気に深刻化した。
現在の韓国社会は、単に不平等なことが問題なのではなく、富と貧困が世代を超えて継承される点が際立った特徴となっている。すなわち、世代間の階層の移動性が低下し、機会の不平等が深まり、いくら努力しても階層の上昇が難しい社会、すなわち「障壁社会」へと移行したのだ〉
たしかに、2018年に韓国の有力シンクタンクの一つである現代経済研究院が発表したアンケート調査の結果を見ると、「いくら熱心に努力しても、自分の階層が上昇していく可能性は低い」と考えている韓国人は、2013年の75.2%、2015年の81.0%、2017年の83.4%と、毎年上昇している。柳鍾一院長が主張した「障壁社会」について、韓国人の8割以上が同意していると見ることができるだろう。
また、2019年6月に韓国保健社会研究院が発表した「社会統合の実態診断及び対応策研究」報告書を見ると、韓国社会に横たわるあらゆる問題に関して、韓国人が「不平等だ」という認識を持っていることが分かる。具体的に見ると、「法律の執行」は、「平等だ」(12.5%)対「不平等だ」(59.3%)。「就業機会」は、「平等だ」(18.8%)対「不平等だ」(48.3%)。「所得分配」は、「平等だ」(8.7%)対「不平等だ」(55.6%)。「富の分配」は、「平等だ」(7.8%)対「不平等だ」(58.4%)。「地域の発展」は、「平等だ」(9.0%)対「不平等だ」(50.9%)。「女性に対する待遇」は、「平等だ」(20.2%)対「不平等だ」(35.5%)……。このように、社会の問題全般にわたって、「不平等だ」という思いが充満していることが明瞭に分かる回答結果となっている。
また、同報告書によれば、韓国人の80.8%が、「人生で成功するには、裕福な家に生まれることが重要だ」と考えており、さらに「韓国で高い地位に上っていくためには、腐敗するしかない」(66.2%)と答えている。これは、韓国社会の葛藤が、すでに臨界点に達していることを示している。
(中略)
この65年で約470倍もの成長を遂げた韓国経済は、西欧が数百年かかった経済発展の過程を、わずか数十年に圧縮して経験した。だがこの異常な「圧縮成長」は、大きな副作用ももたらした。
韓国の代表的な知識人であるキム・ジンギョン氏は、韓国の圧縮成長について次のように考察する。
〈日本が明治維新以後、100年で西欧の近代化300年の歴史を圧縮して追体験したとすれば、韓国は60年代以降、30年で西欧の300年を圧縮して経験した。このような速度の中で、こうした狂気じみた変化の中で、(少し誇張して言うなら)私たちは30年の生物学的時間で、300年の叙事的な時間を生きてしまったのだ。恐ろしい速度で西欧を真似していく中で、自分自身を振り返るということは不可能であり、必要なこととも見なされなかった〉
韓国式「圧縮成長」の本質は、効率にあった。限られた資金と資源を、効率最優先で配分した。具体的には、政府と共に歩む財閥への配分を極度に手厚くし、財閥が市場を独占する「韓国型システム」を作り上げた。その結果、経済成長の「骨格」はできたが、日本の中小企業や地方企業のような「細胞」は育たなかった。それゆえ、経済の「血液循環」がうまくいかず、富が一部に集中する問題を抱えてしまった。
同時に、「成長第一主義」という考え方は、「成功するのが一番、そのためには手段や方法は選ばない」という風潮を広め、韓国人を歪んだ競争主義に追い込んだ。
(中略)
金大中政権の「劇薬療法」によって、3年8ヵ月後の2001年8月23日、韓国はIMFから借り入れた資金を早期に返済し、経済主権を取り戻した。しかし皮肉なことに、この過程で韓国社会の両極化と所得の不平等は、さらに深刻化したのである。特に、「苦痛の分担」という名のもとに施行された整理解雇制と労働者派遣制などの労働市場の柔軟化政策は、中産層の崩壊を招いた。
大規模なリストラで失業者は400万人を超え、サムスンや現代[ヒョンデ]、LGのような屈指の財閥企業ですら、「新卒で入社すれば定年まで安泰」という終身雇用の不文律が破られた。また、派遣やパートタイマーなど非正規労働者の採用が法律で許可され、「88[パルパル]世代」(ソウル五輪が行われた88年と月収88万ウォン=約8万円を掛けている)という自虐的な言葉が流行語になった。
現在、韓国の就業者の20%以上、大手企業の労働者の約4割が非正規職であり、深刻な労働問題となっている。金大中政権の急激な新自由主義的経済改革により、韓国はIMF危機という「急病」は治療できたが、「重い後遺症と慢性疾患」を抱えることになった。それが、社会の二極化と、社会階層の定着化である。
思えば、韓国の最近の流行語には、過去にも増して自虐的な言葉が多い。「ヘル朝鮮[チョソン]」「スプーン階級論」「N放[ポ]世代」……。これらの意味が分かれば、相当な韓国通と言える。
「ヘル朝鮮」とは、「地獄(HELL)のような韓国社会」という意味である。なぜ「韓国」と言わずに「朝鮮」と言うかといえば、「朝鮮時代(14~20世紀初め)のような前近代的な国」という皮肉を込めているからだ。
「スプーン階級論」の「スプーン」は、生まれた家の経済力を喩えている。「金のスプーン」をくわえて生まれたら、一生裕福。そうでなければ一生貧乏という意味だ。
「N放世代」は、2011年に誕生した「三放世代」という造語がもとになっている。これは貧しさゆえ、恋愛・結婚・出産という人生で重要な3つのことを放棄せざるを得ない世代という意味だ。ところが最近は、「放棄せざるを得ないもの」が3つでは済まなくなったため、不定数の「N」(ナンバー)にして、「N放世代」と呼ぶのである。
金敬哲「韓国 行き過ぎた資本主義 「無限競争社会」の苦悩」 はじめに

韓流ドラマを見ている人はなんとなく空気感を知っていると思うが、韓国はいまやすさまじい競争社会になっている。特に教育システムは世界でも他に類を見ないほど先鋭化しており、幼児期からエリート教育を施される子どもたちにかかる負荷は相当なものだ。

過度な学業ストレスに苦しんでいる大峙洞キッズのための「メンタル治療」も最近流行っている。大峙洞に近い道谷[トゴク]駅の傍でメンタルクリニックを開いているイ・ミヒョン所長は、大峙洞ママの間で人気の高いカウンセラーの一人だ。イ所長本人がソウル大学を卒業し、夫はソウル大学医学部出身の医師、息子もソウル大学に通っている。取材中に出会ったある大峙洞ママは、ママたちの心理についてこう話してくれた。
「ここのママたちが人を見るとき、もっとも重要視するのが出身大学です。本人がどこの大学を出たのかも大事ですが、子供をソウル大学に入学させたということは、大峙洞ママたちにとってまさに羨望の対象です。子供の教育に成功したのだから、この人は信じられると見なされます」
大峙洞周辺のメンタルクリニックでは、通常1時間あたり20万ウォンのカウンセリング料を取っている。週1回、月に4時間カウンセリングを受けるのが一般的だそうだ。
イ所長のクリニックには、5歳から高校生まで幅広い年齢の生徒たちが訪れる。
「最近では、英語幼稚園に通う7歳の女児がいちばん若かったです。幼稚園で攻撃的な行動をし、授業態度も散漫な様子だったので、原因を知りたいと母親が連れてきました。カウンセリングの結果、母親が子供に強圧的に勉強させていたのが原因でした。子供は家で欲求が抑えられると、それをどこかで発散しなければならなくなります。その子の場合は幼稚園での過激な行動にそれが現れたんです」
それでも幼稚園や小学校のときに親が異常に気付いて、カウンセリングを通じて早めに子供たちのメンタルをケアできた場合は、それ以上大きな問題にはならないという。深刻なのは、優等生が大学入試を控えたある日突然に「バーンアウト」するケースだ。
「幼稚園のときから全校トップを通していた生徒が、高校2年生になって、突然、登校拒否になり、引きこもったケースがありました。その生徒は小学生のときから休む間もなく塾を転々としていました。中学生まではそれでも何とかやっていけていたのですが、高校生になってからストレスが一層ひどくなって、身体的にも問題が出てきたのです。ある日、体の具合が優れなくて『お母さん、今日は塾に行けそうもない』と訴えました。しかし、母親は塾を休むことを許しませんでした。結局、その子は一応塾に行ったものの、だんだん母親に腹が立ってきたのです。こんなに痛いのに休むことも許さない、無理やり自分を塾に行かせた母親がどんどん憎らしくなってきました。苛立った心で席に座っているだけで、先生の授業も耳に入らなくなりました。それでも、しばらくはその後も休まず塾に通ったそうです。しかし、勉強はしないでぼんやりと座っているだけでした。そんなことが繰り返され、塾の勉強に追いつけなくなり、自分の部屋からも出られなくなったのです」
イ所長によると、勉強によるストレスで体の不調を訴えるケースは少なくないという。
「今の子供たちは親が作ったハードなスケジュールに合わせて生きています。子供たちは機械じゃないのに、朝は学校に行って、夕方ちょっと休んで、またすぐにスケジュールに合わせて塾を転々とします。塾に行くと、また宿題が出るじゃないですか。結局、最近の小学5~6年生は夜12時過ぎまで勉強をしています。このような生活が高校まで続くと、疲労が累積されて無気力になり、特別な理由がなくても体に症状が現れます。体全体が痛くて、まともに黒板を見ることができない。吐き気がして授業時間中伏せたままの子供もいます。しかし、病院に行っても内科的な診断は特に出てこないのです。体全体が疲れて、朝起きて学校に行っても椅子に座っている気力さえ出ない……こんなことが長く続いてから、やっと両親も大変だと気付いて、子供を連れて相談に来られるんです」
幼いときから名門大学を目標に、休むことなく、ひたすら走ってきた大峙洞キッズたちが、肝心な受験を目の前にして「バーンアウト」することは珍しくないらしい。嫌で嫌で仕方ないけど、そこから抜け出すこともできない。子供たちの悲鳴が聞こえてくるようだ。
— 同前 第1章-2

このような過酷な競争社会の中を生き抜いてきたエリートが、 “I deserve.” 「私は(成功に)値する」と考えてしまうのもむべなるかな、という感じがする。しかしそれをコインの表とするならその裏にあるのは非エリートに対する “You deserve.” 「あなたは(落伍に)値する」という蔑みである。競争が激しければ激しいほどこの価値観は強化される。称賛と侮蔑は同じコインの表と裏であり、両者は同じ価値観に基づいている……ここだ! この瞬間を捕まえなければならない! “Deserve” 「値する」という言葉の持つ両義性、これこそが現在の分断の淵源にある「物語の呪い」なのだ。この分断は、もはや右と左といった別思想による対立ではなく、同一の価値観を基にしたエリートと非エリートの分断である。そしてこの現象は韓国や日本だけでなく、他の先進国でも進行しており、いま世界で最も注目されている問題だと言っても過言ではない。実際、最近になって世界の知識人が一斉にこの問題について論じ始めている。たとえばトッド。

ニューヨーク、ワシントン、ロサンゼルス、サンフランシスコなど大都市のメディアや大学のエリートは、トランプ支持者を「学歴がない」「教養がない」と馬鹿にし、ヒラリー本人も、「嘆かわしい人々(deplorable)」とまで言いました。
学歴社会とは、「出自」よりも「能力」を重視する社会です。しかし、本来、平等を促すための能力主義なのに、過度な能力至上主義によって、高学歴エリートが、学歴が低い人々を侮蔑するような事態に至ってしまったのです。
高学歴エリートは、「人類」という抽象概念を愛しますが、同じ社会で「自由貿易」で苦しんでいる「低学歴の人々」には共感しないのです。彼らは「左派(リベラル)」であるはずなのに、「自分より低学歴の大衆や労働者を嫌う左派」といった語義矛盾の存在になり果てています。「左派」が実質的に「体制順応主義(右派)」になっているのです。
これは、「学歴」と「左派」が密接に結びつき、「高等教育」が「格差是認」につながっているという皮肉な事態です。その結果として、「エリート主義vsポピュリズム」という分断が生じています。米国に限らず、多くの先進国に共通する現象です。
「トランプ再選」がアメリカのために必要な理由 — 文藝春秋digital

先日邦訳版が刊行されたサンデルの新刊なんかはまさにこの問題をストレートに論じた本だ。

勝者の説明によれば、問題となる政治的分断は、もはや左か右かではないという。そうではなく、開放的[オープン]か閉鎖的[クローズド]かなのだ。オープンな世界では、教育、つまりグローバル経済で競争して勝つための素養を身につけることが、成功を左右する。だとすれば、中央政府がぜひともやるべきことは、成功を左右する教育を受ける平等な機会をあらゆる人に保証することだ。だが、そうなると、トップに立つ人びとは自分たちは成功に値すると考えるようにもなる。そして、機会が本当に平等なら、後れを取っている人びともまたその運命に値することになる。
成功についてこうした考え方をすれば、「ここでは誰もがともにある」と信じることは難しくなる。高学歴のエリートは成功を自分の手柄と考えるだろうし、多くの労働者は成功者に見下されていると感じやすくなるからだ。グローバリゼーションのせいで取り残された人びとが怒りに燃えるのはなぜか、エリートをののしり、国境の回復を強い口調で約束する独裁的ポピュリストに引きつけられるのはなぜかが、これで理解しやすくなる。
マイケル・サンデル「実力も運のうち 能力主義は正義か?」 プロローグ

現代の分裂した政治情勢を乗り越える道を見つけるには、能力の問題に取り組む必要がある。この数十年で、能力の意味はどう変容してきただろうか。そのせいで、労働の尊厳はむしばまれ、多くの人がエリートに見下されていると感じるようになってしまったのだ。グローバリゼーションの勝者は成功を自力で勝ち取ったのだからそれに値するという信念は、正当なものだろうか。それとも、能力主義に基づく思い上がりだろうか。
エリートに対する怒りが民主主義を崖っぷちに追いやっている時代には、能力の問題はとりわけ緊急に取り組むべきものだ。
— 序論

下から見上げると、エリートのおごりはいら立たしいものだ。他人に見下されて喜ぶ者はいない。ところが、能力主義の信念は傷に塩を塗る。自分の運命は自分の手の中にあるとか「やればできる」という考え方は諸刃の剣であり、人を元気づける面と不愉快にさせる面がある。こうした考え方は勝者を称える一方で敗者を──彼ら自身の目から見ても──傷つける。仕事が見つからない、あるいは生計を立てられない人びとにとって、意気消沈させるこんな考えから逃れることは難しい。彼らの失敗は自業自得であり、成功するための才能や意欲が欠けていたにすぎないのだ、と。
この点で、屈辱の政治は不正義の政治とは異なる。不正義への抗議は外側に向かう。その訴えは、こうした体制は不正に仕組まれたものだとか、勝者は頂点への道を都合よくゆがめてきた、あるいは操作してきたなどといったものだ。屈辱への抗議の場合、心理的な負担がもっと大きい。勝者への反感にどうしても自己不信がつきまとう。もしかすると、金持ちが金持ちなのは貧乏人よりもその地位にふさわしいからかもしれない、敗者は結局のところ自分の不幸の共犯者なのかもしれない、などと感じてしまうのだ。
こうした特徴が、屈辱の政治をほかの政治的見解より過激なものとする。
— 第1章

こんにち、われわれが成功についてとる見解は、かつてピューリタンが救済についてとったものと同じだ。つまり、成功は幸運や恩寵の問題ではなく、自分自身の努力と頑張りによって獲得される何かである。これが能力主義的倫理の核心だ。この倫理が称えるのは、自由(自らの運命を努力によって支配する能力)と、自力で獲得したものに対する自らのふさわしさだ。私が収入や富、権力や名声といった現世の資産の少なからぬ割合を自らの力で手にしたとすれば、私はそれらにふさわしいに違いない。成功は美徳のしるしなのだ。私の豊かさは私が当然受け取るべきものなのである。
こうした考え方は勢いを増しつつある。それは、人びとにこう考えるよう促す。私は自分の運命に責任を負っており、自力では制御できない力の犠牲者ではないのだ、と。だが、これには負の側面もある。自分自身を自立的・自足的な存在だと考えれば考えるほど、われわれは自分より恵まれない人びとの運命を気にかけなくなりがちだ。私の成功が私の手柄だとすれば、彼らの失敗は彼らの落ち度に違いない。こうした論理によって、能力主義は共感性をむしばむ。運命に対する個人の責任という概念が強くなりすぎると、他人の立場で考えることが難しくなってしまう。
— 第3章

ここに書かれている内容はすでに僕自身が持っていた思想と実感に合致するもので、答え合わせのように読んでいたのだが、能力主義(メリトクラシー)と貴族社会(アリストクラシー)を対比している箇所は「おお、なるほど」と思わせるものがあった。

あなたが貴族社会の上位層に生まれていれば、自分の特権は幸運のおかげであり、自分自身の手柄ではないとわかるだろう。いっぽう、努力と才能によって能力主義社会の頂点に登り詰めたとすれば、自分の成功は受け継いだものではなく、自ら勝ち取ったものだという事実を誇りにできる。貴族社会における特権とは異なり、能力主義社会における成功は、自力で地位を手にしたという達成感をもたらす。こうした観点からすると、貴族社会よりも能力主義社会において裕福であるほうが好ましい。
同様の理由で、能力主義社会において貧しいことは自信喪失につながる。封建社会で農奴の身分に生まれれば、生活は厳しいだろう。だが、従属的地位にあるのは自分の責任だと考えて苦しむこともないはずだ。また、自分が苦役に耐えながら仕えている地主は、自分より有能で才覚があるおかげでその地位を手に入れたなどと思い込んで悩む必要もない。地主は自分よりもその地位にふさわしいわけではなく、運がいいにすぎないことがわかっているはずだからだ。
対照的に、能力主義社会の最下層に落ち込めば、どうしてもこうした考えにとらわれてしまう。すなわち、自分の恵まれない状況は、少なくとも部分的には自ら招いたものであり、出世するための才能とやる気を十分に発揮できなかった結果なのだ、と。人びとの出世を可能にし、称賛する社会では、出世できない者は厳しい判決を宣告されるのである。
— 同前 第5章

貴族社会の時代は「人生なんてだいたい運」という共通認識を誰もが持っていたが、能力主義の時代への変遷過程で、その共通認識が失われてしまったのだ。そして成功者は自分の成功を運ではなく自分の手柄だと考えるようになり、ますます驕り高ぶる。落伍者は自分の落伍を運ではなく自分の責任だと考えるようになり、ますます自己卑下に陥る。能力主義の時代では、後者には言い訳すら許されない。ここで重要なのは — さっきも書いたが本当の本当に重要なのでもう一度書く — 言い訳を禁じているのが落伍者本人だということだ。「耳と目を閉じ口をつぐんで孤独に暮らせ」と囁く声は、他の誰でもない自分自身の声なのだ。しかしだからといって積もり積もっていくみじめさといらだちがどこかに霧散するわけではない。その集積は必ずどこかで臨界点を迎える。いやもうすでに臨界点を突破している。それが現在の分断状況である。だからサンデルは「能力の問題はとりわけ緊急に取り組むべきものだ」と主張し、他の知識人も同様の主張を始めているのだ。

現代社会の階層は固定されつつある。高年収の親ほど子に良質な教育を施すことが可能だからだ。エリート教育を受けた子もまた親と同じく高年収の職に就くことができ……という繰り返しで階層は再生産される。公教育の父ホレース・マンは「教育とは社会の偉大な平等化装置である」と言ったが、現代においては教育こそが不平等を再生産しているのだ。こういった意味で、現代にも世襲制の貴族社会が復活しつつある。とはいえ、階層の移動が事実上不可能だった昔より、個人の才能や努力によって階層移動が可能である現代の方がだいぶマシな社会だろう。能力主義が社会を歪めているからといって、いまさら封建社会に戻りたいなどと願う人はほとんどいないはずだ。必要なのは過去へのタイムスリップではなく、過去にあった有用な価値観の輸入である。かつての封建社会にあった「人生なんてだいたい運」という共通認識を現代に輸入するのだ。サンデルはその手法のひとつとして「大学の入学者選抜をくじにすればいい」と提案する。

「ときどき、やりきれない気分になります。何千人分[の願書]を全部……階段の上からばらまいて、手当たり次第に1000人を選んでも、委員会で話し合って選んだのと遜色ない学年ができあがるでしょうから」
私の提案は、この意見を真剣に受け止めるものだ。4万人超の出願者のうち、ハーバード大学やスタンフォード大学では伸びない生徒、勉強についていく資質がなく、仲間の学生の教育に貢献できない生徒を除外する。そうすると、入試委員会の手元に適格な受験者として残るのは3万人、あるいは2万5000人か2万人というところだろう。そのうちの誰が抜きん出て優秀かを予測するという極度に困難かつ不確実な課題に取り組むのはやめて、入学者をくじ引きで決めるのだ。言い換えれば、適格な出願者の書類を階段の上からばらまき、そのなかから2000人を選んで、それで決まりということにする。
この提案は、能力をまったく無視するわけではない。適格者だけが合格するのだ。しかし、能力を資格の一基準として扱うだけで、最大化すべき理想としてはいない。
— 同前 第6章

この提案は突飛に思えるがここまでの議論を踏まえれば納得できるものではないだろうか。

適格者のくじ引きを支持する最も説得力ある根拠は、能力の専制に対抗できることだ。適格性の基準を設けて、あとは偶然に任せれば、高校生活は健全さをいくらか取り戻すだろう。心を押し殺し、履歴を詰め込み、完璧性を追求することがすべてとなってしまった高校生活が、少なくともある程度は楽になるだろう。能力主義によって膨らんだ慢心をしぼませる効果もある。頂点に立つ者は自力で登り詰めたのではなく、家庭環境や生来の素質などに恵まれたおかげであり、それは道徳的に見れば、くじ運がよかったに等しいという普遍的真実がはっきり示されるからだ。
— 同前 第6章

韓国やアメリカのような無限競争社会では、大学受験は想像を絶するほど過酷なものになる。限られた席をめぐってエリートたちは青春のすべてを受験に捧げなければならない。他の受験者より1点でも多く、少しでも印象よく。そうした「切磋琢磨」の結果、90%の結果で合格できていたものが95%に、98%に、99%に、99.9%に、99.99%に、99.999……無限に終わらない。この無限競争は、人の精神を蝕み、人を死に追いやり、文字通り「生き抜いた」人間には慢心を植えつける。ここに何の意味があるのだろう? 80%を90%にすることには意味があるかもしれない。しかし99.9%を99.99%にすることにはさほど意味があるようには思えない。そこにかかるコストがリターンに見合っているとは到底思えない。受験者本人からしてみれば一度きりの人生だ。そこにどれだけのコストをかけても惜しくないかもしれない。しかし社会全体から見たとき、99.9%→99.99%で得られる社会的利益(平均学力の微増)に対して社会的損失(「経済的価値」の高い人材を抑鬱や自害によって喪失する)が見合っていないのだ。あえてこの言い方をしよう。それは経済的じゃないでしょう、と。この論理は頑なに新自由主義を信奉する人であっても納得できるはずだ。どれほど声高らかに規制緩和を叫ぶ自由市場支持者であっても、2021年現在において児童労働を復活させようなどと叫ぶ人はいない。しかしつい100年ほど前までは多くの「常識人」が児童労働の規制は自由市場の原理に反すると声高らかに叫んでいた。児童労働を規制すれば社会が成り立たなくなると本気で考えていたのだ。同様に、最低賃金や週40時間労働についても、実際に施行されるまでは、そんなことをすれば経済が破綻すると考える人が多かった。実際は、豊かになって自由時間の増えた労働者たちが優秀な消費者となっただけだった。水俣病や四日市喘息の悲劇を知る現代日本人は、企業の利益のために工場の規制を緩和せよ、などと叫ぶことは決してない。企業から見れば経済的であってもそれは外部不経済でしかなく、社会全体にとってはマイナスだということをいまでは誰もが知っている。自由市場はたしかに資源の最適配分という目的においては優秀なシステムだ。しかしどこかに不経済を結果する部分があるのならそこは規制されなければならない。無限競争社会が引き起こしている数々の問題は、もはや公害である。だからこの不経済を解決するような施策が求められている。「くじによる入学者選抜」は、その施策として「あり」だと僕の目には映る。これによって「人生なんてだいたい運だ」という共通認識を取り戻すことは、この公害に対する最も優れたカウンターだと思うからだ。そしてこれはエリートだけでなく非エリートも救う処方箋である。 “You deserve.” 「あなたは値する」という言葉の説得力を減じることは、非エリート層のみじめさを減じることにつながるからだ。そうして世界からみじめさを減じれば、エリート層の居心地の悪さも少しはやわらぐはずだ。

世界からみじめさを減じる……もしかしたらこれが、僕にとって善い[good]ことなのかもしれない。最大多数の最大幸福ならぬ、最大多数の最小悲惨。ポストモダンの現代においては何が幸福かなんて人それぞれだ。いや幸福を求めるかどうかさえ人それぞれなのだ。僕のように幸福でないことに価値を見出す人種なんてめずらしくもなんともない。だけど「みじめでないこと」は、誰もが求めることではないだろうか? それは、普遍的な価値観ではないだろうか?

価値の誤謬

ある広さの土地に囲いを作って、これはわたしのものだと宣言することを思いつき、それを信じてしまうほど素朴な人々をみいだした最初の人こそ、市民社会を創設した人なのである。そのときに、杭を引き抜き、[境界を示す]溝を埋め、同胞たちに「この詐欺師の言うことに耳を貸すな。果実はみんなのものだし、土地は誰のものでもない。それを忘れたら、お前たちの身の破滅だ」と叫ぶ人がいたとしたら、人類はどれほど多くの犯罪、戦争、殺戮を免れることができただろう。どれほど多くの惨事と災厄を免れることができただろう。
ルソー「人間不平等起源論」 第2部

みじめさ。やはりこれに向き合わなければならないのだ。それも、 “It doesn’t make sense.” なみじめさ、不公正[unfair]な交換関係によるみじめさだ。これはマゾヒストが求めるみじめさとは異なる。マゾヒストが価値を見出すみじめさは、公正[fair]な交換関係によるみじめさであり、それは真のみじめさのレプリカにすぎない。不公正[unfair]な交換関係は、人の尊厳を傷つけ、存在そのものを直接攻撃する。それに対して反撃できないとき、その不公正[unfair]を是正できないとき、人は真のみじめさを覚える。それが積もり積もって、命の価値はゼロに等しくなっていく。そして最後には人を無敵のジョーカーに変える。これこそが、この世のあらゆる争いの根本原因だと言っても過言ではない。個人間のいさかいから、国家間の戦争に至るまで。だからこれは決して軽く扱ってはならないものだ。決して軽く見てはならないものだ。実際問題、これこそが歴史を動かしてきたのだ。人類史という一大プロジェクトは「みじめさドリブン」であった。人は世界からみじめさを減じるために社会の仕組みを見直し、さまざまなものを生み出してきた。その最たるものが人権である。実のところ、国家同様、人権もまたフィクションにすぎない。人権の根拠とされる憲法も、世界人権宣言も、そのテキストのさらに根拠となるものはどこにもない。本当にどこにもないのだ。だってこれは自然の摂理や法則などではなく、人工的に作り出された概念、人がある目的のために「発明」したものにすぎないのだから。その目的がまさしく「世界からみじめさを減じること」である。あらゆる人間がそこに価値を見出したからこそ、それが普遍的な価値観だったからこそ、人権というフィクションはリアルになったのだ。

多くのみじめさは労働の場で生まれる。コミュニケーションの場における「こいつは愚鈍だから不公正[unfair]な交換関係でいいだろう」は、労働の場における「こいつは使えないやつだから不公正[unfair]な労使関係でいいだろう」へとたやすくスライドする。そこに明確な境界はない。「こいつはバカにしても大丈夫」という空気が一度できてしまうともう終わりだ。あとは雪崩のように「いじり[tease]」が「いじめ[bully]」に変わり、ハラスメントに変わり、精神的、経済的、あらゆる形態の搾取が始まる。うんざりするほど何度も見てきた光景だ。人は好き勝手にできる状況に置かれると必ず好き勝手に振る舞うものなのだ。自制できる人間などいない。絶対的な権力は絶対に腐敗する。これもまた人間の宿痾である。それを制するために労働組合は存在する。戦後、労組の活動が活発になって以降の労働争議を調べていくと、「名前を呼び捨てにしないでください」という要求があることに気づく。しかもそれは、賃上げや職場環境の改善と同等か、ときにはそれ以上の重みで要求されていたのである。特に炭鉱では鉱夫たちは職員から名前で呼ばれることすらなく「おい」とか「こら」とか呼びかけられることが多かった。これを「○○さん」と呼ばせるように要求し、適切なコミュニケーションコストを支払わせることで、労働者たちは人間としての尊厳を取り戻す。それこそが不公正[unfair]な労使関係の改善の第一歩なのだった。なぜこれが重要なのか、日雇い仕事をしたことがある人なら実感できるのではないだろうか。日雇いの仕事で名前で呼ばれることなどほとんどない。ひどい現場ではかつての鉱夫たちのように「おい」とか「お前」呼ばわりされるし、マシな現場でも「お兄(姉)さん」とか「そこの人」とか、派遣会社を通しているなら「(会社名)さん」とか呼ばれるものだ。いずれにせよ、ひとりの人格ある人間として扱われている感じはしない。そういった生活が続くとどうなるか? 僕自身の体験から言えば、「労働とはそういうもの」だと考えるようになるのだ。絶対不可侵であるはずの自我の領域を一部明け渡すこと、自分の時間(人生=命)を切り売りすること、労働とはつらくみじめなものであり、それに耐えることの見返りとして賃金は支払われるのだと考えるようになる。いまだから言えるが、この考えはあきらかに間違っている。仕事にストレスはつきものだが、みじめなのはおかしいのだ。労働で人間の尊厳を傷つけられることなどあってはならない。職務上の負荷とこれを混同してはならない。さらに言えば、賃金はそれに耐えることへの対価などではない。エリートと非エリートの世界を行き来している僕は自信を持って言える。高単価の仕事の方が、人として尊重され、負荷が少なく、休暇も多い。つらくもなく、みじめでもない仕事の方が、より多くお金と時間を手にできる。そしてそのような仕事にありつけるかどうかは、ただの運にすぎない。

多額のお金を稼ぐことは個人の功績や美徳の尺度ではなく、個人が提供するスキルと市場で要求される技量の幸運な偶然の一致を反映しているにすぎない。
マイケル・サンデル「実力も運のうち 能力主義は正義か?」 第5章

自由な社会では、私の所得や資産は私が提供する財やサービスの価値を反映するものの、こうした価値は需要と供給の偶発的な状態によって決まる。それは私の功績や美徳、つまり私がなす貢献の道徳的重要性とは何の関係もないのである。
— 第5章

ハイエクは自分の主張を擁護すべく、こう述べている。たまたま社会が評価してくれる才能を持っていることは、自分の手柄ではなく、道徳的には偶然のことであり、運の問題なのだ、と。
“先天的なものであれ後天的なものであれ、ある人の才能がその仲間にとって価値を持つことは明らかだが、そうした価値は、その才能を持つことで当人に与えられるべき栄誉には依存しない。こうした特別の才能がごくありふれたものか、非常にまれなものかという事実を変えようとしても、人間にできることはほとんどない。頭の良さや美声、美貌や手先の器用さ、飲み込みの早さや人間的な魅力などの大半は、ある人が手にする機会や経験と同じように本人の努力とは無関係だ。これらすべての例で、その人の技量や貢献がわれわれに対して持つ価値──その価値のおかげで本人は報酬を受け取る──は、道徳的な功績や手柄と呼びうるいかなるものとも、ほとんど関係がない。”
ハイエクにとって、経済的報酬が功績の問題であることを否定するのは、ヘッジファンド・マネジャーは教師より多く稼ぐに値しないと考える人びとによる再分配の要求をかわすための一つの手段だ。ハイエクは次のように答えることができる。われわれが、人を教育する仕事は資金を運用する仕事より称賛されるべきだと考えるとしても、賃金や給料は善良な気質や立派な業績に対する賞金ではなく、市場参加者が提供する財やサービスの経済的価値を反映した支払い金にすぎないのだ、と。
— 第5章

人の経済的価値は需要と供給のバランスによって決定される。需要が多く希少なスキルを有していれば価値は高くなる(=稼げる)。需要が少なく同じようなスキルを有している人が多ければ価値は低くなる(=稼げない)。国のGDP、業界の経済規模なんかにも大きく左右されるし、需給バランスは社会情勢によっていかようにも変わる。たとえばエネルギー革命だ。主燃料が石炭から石油や天然ガスに変わったことによって、かつては黒いダイヤとまで呼ばれた石炭の価値は下がり、炭鉱の街は一気に寂れていった。炭鉱夫たちも職の転換をせまられ、以前のような羽振りのいい生活はできなくなった。加えて言うなら、時代が下るにつれて求められる基礎能力はどんどん上がっている。読み書きができるだけで有能扱いだった時代もあったが、現代ではそんなものは必須能力のひとつにすぎない。ホモサピエンスとしての生物的スペックが高くなったわけでもないのに、社会の構成員として求められる知識と技能はどんどん増えている。すると必然的に「経済的価値」とやらの低い人間が増えてくる。

現在、一般に流通している「知的障害はIQが70未満」という定義は、実は1970年代以降のものです。1950年代の一時期、「知的障害はIQ85未満とする」とされたことがありました。IQ70~84は、現在では「境界知能」と言われている範囲にあたります。しかし、「知的障害はIQが85未満」とすると、知的障害と判定される人が全体の16%くらいになり、あまりに人数が多過ぎる、支援現場の実態に合わない、など様々な理由から、「IQ85未満」から「IQ70未満」に下げられた経緯があります。ここで気付いて欲しいことがあります。時代によって知的障害の定義が変わったとしても、事実が変わるわけではないことを。IQ70~84の子どもたち、つまり現在でいう境界知能の子どもたちは、依然として存在しているのです。
宮口幸治「ケーキの切れない非行少年たち」 第4章

このまま機械化・AI化が進んでいけば、さらに「経済的価値」とやらの低い人間は増えるだろう。単純作業の仕事によって職を得ることができていた人たちは、どんどん労働市場からはじき出されることになる。しかしそれでも福祉が機能しているなら特に問題はないように思われる。労働は社会と関わるための重要なパスだが、労働のみが社会と関わるパスなわけではない。誰かに必要とされている感覚は生きるために重要かもしれないが、それは労働以外でも感じられるものだ。何より、その「誰かに必要とされている感覚」は上で述べたように市場の気まぐれによって得られるものだ。そんな偶然性に全体重を預けていたら、すぐさま地面に叩きつけられることになる。問題は、偶然によって決定される「経済的価値」とやらが、その人自身の価値と混同されているところにある。現代では、「あいつは使えるやつだ」は「あいつは生きる価値がある」と同義であり、「あいつは使えないやつだ」は「あいつは生きる価値がない」と同義である。お金を稼げないという事実は、「お前には生きる価値がない」と社会から通告されているに等しい。貧困とは「この世に生きる資格がない」ことを示す烙印なのだ。当然のことながら、こんな考えは完全に完璧にまったくさっぱり100%間違っている。なぜなら経済的価値は労働市場における値札でしかなく、その値札は市場の外ではただの紙切れにすぎず、そこに書かれた数値は完全なランダムナンバーであり、それはその人の価値にはまったくさっぱり1ミリも関係がないからだ。よく考えてみて欲しい。このまま機械化・AI化が進んで、肉体労働も頭脳労働も芸術も何もかもが人間の手を離れ、最終的に人類全員の「経済的価値」がゼロになったとしよう。もしそれが「生きる資格がない」ことを意味するのであれば、その時点で人類は絶滅しなければならないことになってしまう。まったくわけがわからないが、「経済的価値がその人自身の価値である(そして生きるべきかどうかはこれによって決定される)」と信じてやまない人が言っているのはまさにこういうことである。高度な文明を持ち、労働や経済という概念を知らない宇宙人が地球にやってきたら爆笑しながらこう言うに違いない。「地球人マジ意味わからんwwwバカじゃねーのwww」と。このようなバカげた誤謬が現代社会にはびこっているのは、単純に、時代の速さに倫理が追いついていないからだ。科学技術と経済の急速な発展にペースを合わせて、人間のありようも、社会の仕組みも、道徳の形も、同じ速度で変えていかなければならなかったのに、まったく追いつけていないのだ。ここで重要なのは、この誤謬こそが福祉を機能不全に陥らせているということだ。そしてその原因は、経済的強者の放言にだけあるのではなく、むしろ、ここでもまた、経済的弱者自身が “I don’t deserve.” 「私は(福祉を受けるに)値しない」と考えてしまうところにある。経済的弱者を福祉から遠ざけている最も大きな障害は、本人の内側にある誤謬なのだ。さっき僕は「福祉が機能しているなら問題ない」と言った。つまり機能不全に陥っているなら問題である。だからいまからこの誤謬を解きほぐしてみよう。

新興宗教労働教

My name is Daniel Blake. I am a man, not a dog. As such, I demand my rights. I demand you treat me with respect. I, Daniel Blake, am a citizen, nothing more and nothing less.
私の名前はダニエル・ブレイク。私は人間だ。犬ではない。よって、私は私の権利を主張する。あなた方に、敬意ある態度を求める。私、ダニエル・ブレイクは、ひとりの市民である。それ以上でも、それ以下でもない。
「わたしは、ダニエル・ブレイク」

ソ連の共和国憲法に書かれた「働かざる者食うべからず[Не трудящийся, да не ест]」という文言は、不労所得で富を自己増殖させ続ける資本家を戒める意味合いであった。日本国憲法の「勤労の義務」も同様である。これを資本家以外にも当てはめ始めたときから何かがおかしくなってしまった。法は人の意識が作るものだが、法もまた人の意識を形成する。両者は相補的なものである。社会のあり方が激変し、戦争と経済成長という狂乱の中で、20世紀の人たちは、「働かざる者食うべからず」という価値観をあまりにも内面化しすぎてしまった。その結果、21世紀の人たちは労働を神聖視するようになり、新興宗教労働教が自然発生し、その教義に従わない異端者を裁くようになった。労働教の支配する現代では、労働することは絶対的な善[good]であり、それを疑うことは許されない。労働することだけが絶対的な善[good]であって、その内容はぶっちゃけどうでもいい。ただただ労働さえしていればいい。労働するフリでも十分だ。とにかくなんらかの形で労働に従事していればいい。それが絶対的に善い[good]ことなのだから敬虔な信徒はただそれを信じるだけでいい。労働に対する信仰心を示すことこそが最も重要なのだ。

労働はすべてサーヴィスになる — ただそこに居ることがそのまま職業となり、時間を消費し、時間を《提供すること》、これが労働となる。出席のあかし[アクト]をたてることや、臣従のちかい[アクト]をたてることと同じように、労働の「あかし[アクト]〔=遂行〕」をたてること。この意味で、提供は事実上提供者と分離できない。サーヴィスを提供することは、身体・時間・空間・脳みそ[マチエール・グリーズ]をひとつにすることである。それが生産するか否かは、このような人格の指数化からみればどうでもよい。
ジャン・ボードリヤール「象徴交換と死」 p.49

今ではもう誰も働きはしない。「生産するふり」をするのだ。生産と労働の文化の終わりである。だからこそかえって「生産的」なる用語が現われる。「生産の担い手」を特徴づけるものは、もはや搾取ではなく、労働過程での原料であることでもなくて、その可動性、相互代替性、固定資本の無用な付属物という性格である。「生産の担い手」とは、マルクスが語ったような「生産の傍へおかれた労働者」の究極の身分を指し示す。
— pp.50–51

労働は社会保障や消費財と同様に社会的再分配財になった。途方も無い逆説が生ずる — 労働はますます生産力でなくなり、ますます《生産物》になる。この側面は、資本システムの現在の大転換、つまり資本システムが生産の特殊段階から再生産段階に移行する革命を特徴づけないわけにはいかない。システムは、機能し拡大するために、労働力を必要とすることがますます少なくなり、しかもシステムが仕事をますます多く提供し、「産みだす」ことが人々から要求される。
— p.70

生産物、《すべての》生産物、それに労働そのものが用・無用を超えている今日では、生産的労働になるものはもう存在しないし、《再生産的》労働しか存在しない。同じく、「生産的」消費も「非生産的」消費も存在しない。《再生産的》消費しか存在しない。余暇も労働と同じ程度に「生産的」であるし、工場労働も余暇や第三次産業と同じ程度に「非生産的」である。「生産的」と「非生産的」とどちらの定式をつかおうとたいしたことではない。《この無差別がまさに政治経済の完成段階のしるしなのである》。すべてが《再生産的》である。すなわちあらゆるものは、それらを区別だてる具体的目的性を失ったのである。今ではもう、誰も生産しない。生産は死んだ。再生産万歳!
— pp.70–71

「象徴交換と死」が出版されたのは1976年だが、ボードリヤールはこの時点ですでに、労働教の誕生、そしてその司祭たちが呪術で生み出した神秘の職業、40年後にブルシットジョブと呼ばれることになる現象の萌芽を見ていたのである。

ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。
デヴィッド・グレーバー「ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論」 第1章

ブルシット・ジョブがなにゆえ問題であるのか? より正確にいえば、なぜ意味のない仕事に就くことが、かくもきまって、人びとを惨めな存在におとしめるのだろうか? あらためて考えてみるなら、これは自明の事態というわけではない。つまるところ、わたしたちが語っているのは、実質的にはなにもせずに金の──たいていは高額の──支払われる人びとのことなのだ。なにもせず金が支払われるのだから、およそ自分を幸運だと考えそうなものである。実質的に放置されているような環境にあるばあいにはなおさらだ。けれども、特筆すべきは、そんな仕事にありつけてラッキーという者はほとんどいなかったことである。ラッキーだなんて考えられないという証言ならばあちらこちらで耳にはしたが。実際に、多くの者は自分自身の反応に当惑しているようで、なぜその状況がこれほど自分を無価値であるよう感じさせるのか、憂鬱な気分にさせるのか理解できないようだった。それどころか、みずからの感情をはっきりと説明できないという事態──この状況がどんなものでどこがおかしいのかについて納得できるストーリーがないという事態──が、しばしば、その惨めさの一因となっているのである。ガレー船の奴隷は、少なくとも自身が抑圧されていることを知っている。ところが、1日7時間半、パソコン画面に向かってタイプするふりをしながら座りつづけるよう余儀なくされた時給18ドルのオフィスワーカーや、毎週毎週クリエイティヴィティやイノベーションにかんする代わり映えのしないセミナーを開催するよう余儀なくされたコンサルタント・チームの新入メンバーは、ただ混乱するばかりなのだ。
— 第3章

ブルシットジョブが生まれた背景には経済成長がある。しかしこれ自体は原因ではない。原因は労働教にある。もう全員が全員フルタイムで必死に働かなくても経済が成立する社会にとっくに至っているのに、経済成長の狂乱の中で自然発生した労働教がそれを許さないのだ。労働教では労働することが絶対的な善[good]であり、誰もが何かしら労働していなければならない。しかし効率化を進め、生産力が上がった結果、労働者に対して職の方が足りなくなってくる。だから労働教は、自らの教義を遵守するために、その呪術を持って、神秘の職業、ブルシットジョブを生み出す。どれだけ無意味で、どれだけクソどうでもいい仕事であろうと、人はすべからく労働しなければならないからだ。それが新しい形の「労働のみじめさ」を生んでいる。

まず、役に立つから雇用されたかのように扱われる。そして、実際そうであるように調子を合わせてふるまっている[プレイ]。ところがそれと同時に、自分が雇われているのは役に立つからではないということも痛烈に自覚している。このようなあり方が、ひとに甚大なる悪影響を及ぼしてしまうのである。それは、個人の自尊心を損ねているのみならず、わたしはわたしであるという根源的感覚に対する直接攻撃なのだから。意味のある影響を世界に与えることのない人間は、存在することをやめてしまうのだ。
— 同前 第3章

「辞めようとしたのは一度や二度ではないですが、その都度上司は、もっと金を払うからと提案してきました。しまいには、日に二回電話で受け答えするのが関の山の仕事で、ばかげた額の給料をもらっていましたよ。結局、夏も終わりの午後、ブリストル・テンプル・ミーズ駅のホームで壊れちゃいました。ブリストルをみてみたいと、いつも夢想していたので、『ユーザー普及率』の視察の名目でブリストルのオフィスへの『出張』を決めたのです。現実には、セント・ポールズのアナルコ・サンディカリスト〔無政府組合主義者〕のハウスパーティーでMDMA〔合法麻薬〕をやりながら三日間過ごしていたのですが、ドラッグが切れたあたりで気づきました。完全に目的がない状態で生きることが、いかに深刻に心を乱すのかということに」
(中略)
エリックの仕事を夢のように感じるひとも多々いることだろう。この逸話で注目すべきは、そこである。かれはなにもせずに大金が支払われていた。また、ほとんど監督もされていなかった。丁重に扱われ、あらゆる抜け穴を使うチャンスが与えられていたのだから。にもかかわらず、その仕事は、だんだんとかれをむしばんでいったのだ。
— 第3章

「価値のある仕事とは、あらかじめ存在している必要性に応えたり、ひとが考えたこともない製品やサービスをつくりだして、生活の向上や改善に資するような仕事ではないでしょうか。わたしは、ずっと昔の仕事はほとんどがこういう種類の仕事で、われわれが暮らしてきたのはそういう世の中だったはずだと信じています。いまとなっては、ほとんどの産業では供給が需要をはるかに上回っていて、それゆえ、いまや需要が人工的につくりだされるのです。わたしの仕事は、需要を捏造し、そして商品の効能を誇張してその需要にうってつけであるようみせることです。実際、それこそが、広告産業になんらかのかたちでかかわるすべての人間の仕事なのだといえるでしょう。商品を売るためには、なによりもまず、ひとを欺き、その商品を必要としていると錯覚させなければならない。もしも、そんなことにわれわれが携わっているのだとすれば、こうした仕事がブルシットでないとはとてもいえませんよね」
— 第2章

「一つめの事例です。小さな業界誌の受付係として電話が鳴るのを待つあいだ、たびたび仕事を依頼されました。それはしょうがありません──でも、その仕事というと、ほとんど一様にブルシットなのです。今後、一生忘れないでしょうね。たとえば、ある広告営業の女性がわたしのデスクにやってきて、何千というクリップを机上にまき散らして、色分けしてと依頼してきました。冗談だとおもいましたが、そうではなかったのです。とりあえずやりましたが、結局、彼女はクリップの色になどまったく頓着せず、ごちゃまぜに使ってました。
二つめの事例です。わたしの祖母は90代のはじめまで、ニューヨークのアパートで独り暮らしをしていました。ですが、彼女が介助を必要としたので、わたしたちはとても感じのよい女性を雇って、祖母と一緒に暮らして見守ってもらうことにしました。基本的には、祖母が倒れたり介助が必要になったときに彼女にいてもらい、買出しや洗濯の手伝いをしてもらえればよかったのです。だから、とくに問題がないときは、彼女のすべきことは基本的になにもありません。ところが、祖母は怒り狂ったのです。『あのひと、そこに座ってるだけじゃないの!』と。わたしたちは、座ってることが大事なんだと説明しました。
祖母の顔を立てるために、わたしたちはその女性に、ほかに用事がなければキャビネットの整頓をしてもらってもかまわないですか、と頼みました。かまいませんよ、と彼女は請け合ってくれました。ですが、アパートは狭いので、クローゼットやキャビネットの整理整頓はすぐに終わってしまい、ふたたび彼女のやることはなくなってしまったのです。するとまた祖母は、女性が座っているだけだと怒り狂いました。結局、その女性は辞めました。仕事を辞めるとき、わたしの母親は『どうして? おかあさん〔祖母〕はとても素敵なひとだとおもうのだけど!』といったのですが、その女性は毅然と応じました。『ええ、
おかあさまはとても素敵なひとですね。わたしは体重が15ポンドも落ちて、髪の毛は抜けちゃいましたけれどね。もうこれ以上、がまんできません』。その仕事自体はブルシットではありませんでしたが、ブルシットな時間つぶしの仕事をたくさんつくって仕事をしているようにみせかけなければならなかった。そのため、彼女は深く尊厳を傷つけられたのです。これは、高齢者のために働く人びとにとっての共通問題だとおもいます(ベビーシッターの仕事も頭に浮かびますが、かなり事情は異なるでしょう)」
— 第3章

海のみえるイタリア料理店で皿洗いをした最初の仕事の経験を、わたしはよくおぼえている。わたしは、夏のシーズンのはじまりに雇われた三人の若者のうちのひとりだった。最初のかき入れ時が到来したとき、だれが史上最高の英雄的皿洗いか証明してやろうというゲームが自然とはじまった。三人は一丸となって効率性を追求する電光石火のマシンと化し、ピカピカの皿の山を記録的な時間で積み上げたのだった。そして、壁にもたれて、自分たちの成果に鼻高々で、おそらくは一服や、自分たちの腹を満たそうと休憩にはいろうとした──もちろん、ほどなく上司[ボス]が姿をみせ、なにをぶらついてだらだらしてやがんだ、といってきた。
「いま皿が戻って来ないからなんて関係ないぞ、時間をムダにするな(youʼre on my time)〔おまえの時間はオレのものなんだぞ〕! ぶらぶらするんなら自分の時間にしろよ。仕事に戻れ!」
「でもなにをすればいいんですか?」
「金たわしをもってこい。それで、ベースボード〔壁と床のあいだの巾木〕を洗え」
「でもベースボードはもう洗いました」
「だったらがんばって、もう一回ベースボードを洗えよ!」
わたしたちは、ここから教訓を学んだ。勤務時間内には、効率を上げ
すぎてはならない。ぞんざいに感謝される(わたしたちの期待していたものとは、これぐらいだったのだが)ことすらないのだから。それどころか、罰として時間つぶしの無意味な仕事を課せられることもあるのだ。また働くふりを強いられるのは、ほとんど絶対的な屈辱であることも、わたしたちは知った。なぜなら、やってもいないことをやってるふりをするのは不可能だったからである。要するに、それは上司にとっては、純粋なる権力行使のための権力行使、わたしたちにとっては純粋なる不名誉だったのだ。ベースボードを磨くふりをするというだけというなら問題ではなかった。ベースボードを洗うふりをするすべての瞬間で、いじめっ子がわたしたちの肩越しにほくそ笑んでいるように感じられたのだ──ただし、ここではもちろん、法と慣習の強制力のすべてを上司は味方につけているわけだが。
こうして、つぎのかき入れ時がやってきたとき、わたしたちはだらだらとやることにした。
— 第3章

これといってなすべきことがなくても、労働者が働いていないのは道徳的に悪であると、どうして雇用主はそういうふうに考えてしまうのか。
働くふりを余儀なくされることがかくも腹立たしいとすれば、自分が丸ごと他者の権力のもとにあるありさまがそれによってあきらかになるからである。もしそうだとすれば、さしずめブルシット・ジョブは、先述のように、仕事総体が、そのような〔丸ごと他者の権力のもとにある〕原理のもとに組織された仕事なのである。自分が働いていること、あるいは、働くふりをつづけるのは──なにか相応の理由、少なくともみずからがそう実感できる相応の理由があってのことではなく──、ただ働きつづけることそのものが目的であるにすぎない。それがひとにとって苦しみであっても、おどろくにはあたらないだろう。
しかしまた、ブルシット・ジョブと、レストランのベースボードを洗浄するよう命じられた皿洗いには、明白な違いがひとつある。後者のばあい、あきらかに弱い者いじめをしている人間がいる。自分をこき使っているのがだれなのかは明々白々なのだ。ブルシット・ジョブのばあい、これほど明瞭なことなどめったにない。見せかけの仕事を自分に強いているのは、いったいだれだというのだろう? 会社なのか? 社会なのか? 社会的規範と経済的諸力の奇妙な合成物であろうか? 実質のある仕事[リアル・ワーク]が十分に存在していないときですら、働かざる者食うべからずなどといった通念を貫徹させるのはなんなのか? 少なくとも、伝統的な職場には、怒りの矛先をむけられるような相手が存在した。
わたしが募った証言から強烈に伝わってくることのひとつが、これだ。つまりは、腹の煮えくり返るような不明瞭さである。なにかいやなこと、馬鹿げたこと、途方もないことが起こっているというのに、その事実を認めてよいのかさえはっきりせず、だれを、なにを非難したらよいのかも、それ以上にはっきりしないのである。
— 第4章

時代が下ってさらに生産力が上がると、実際に社会に対して何らかの影響を与えるリアルワークよりも、ただ教義を遵守するためだけに呪術で生み出されたブルシットジョブの方が主流になってくる。そうすると、「実際に社会に対して何らかの影響を与える」ことが希少になり、それ自体が価値を持つようになる。リアルワーク(≒社会にとって必須の仕事[essential work])に従事する人は仕事それ自体で対価をすでに受け取っているのだから、市場における価値(=賃金)を低く見積もられる、というねじれた現象が発生する。日本語で「やりがい搾取」といった方が早いか。ヤリ貝というイマジナリー通貨で対価はすでに支払われているのだから、法定通貨は法にふれないギリでいいでしょ、というやつだ。

地下鉄労働者がロンドンを麻痺させることができるというまさにその事実が、かれらの仕事が実際に必要とされていることを示している。しかし、この事実こそ、まさしく人びとを苛立たせた一因であるようなのだ。共和党議員が学校教員と自動車工に対する反感を動員することにいちじるしい成功をおさめてきたアメリカでは、それはいっそうはっきりしている(そして意味深なことに、この反感が、実際に問題を生じさせている学校管理者[スクール・アドミニストレーター]や自動車産業の経営陣[エグゼクティヴ]に対してむけられることはなかった)。「だって、きみたちは子どもに勉強を教えることができるじゃないか! 車の製造ができるじゃないか! きみたちは本物の仕事[リアル・ジョブ]をもっているじゃないか! このうえ、あつかましくも中産階級なみの年金や医療まで期待するというのか?」と、いわんばかりに。
— 同前 序章

いいかえれば、社会に便益[ベネフィット]をもたらすことを選んだ人びとや、とりわけ、みずからが社会に便益をもたらしているという自覚をもつことによろこびを感じる人びとには、中産階級なみの給与や有給休暇、充分な額の退職金を期待する権利はまったくない。さらに、自分は無意味で有害ですらある仕事をしているという認識に苛まれねばならぬ人びとは、まさにその理由によって、より多くのお金を報酬として受け取って然るべきだという感覚もまた存在しているのである。
このことはいつだって政治的レベルにおいてあらわれる。たとえば、イギリスにおいては「緊縮政策」の8年間〔2010年のキャメロン政権以降〕に、看護師、バスの運転手、消防士、鉄道案内員、救急医療スタッフなど、社会に対し直接にはっきりと便益[ベネフィット]をもたらしているほとんどすべての公務員の賃金が、実質的に削減された。その結果、チャリティの食糧配給サービス[フードバンク]で生計を立てるフルタイムの看護師があらわれるにまでいたったのである。ところが、政権与党はこの状況をつくりだしたことを誇りに感じるようになっていた。看護師や警察官の昇給を盛り込んだ法案が否決されたとき、歓声をあげた議員たちがいたぐらいである。この政党はまた、その数年前には、世界経済をほとんど壊滅に追い込んだシティの銀行家たちへの補償金を大幅に増額すべきという大甘の見解をふりまわしたことで悪名高い。にもかかわらず、その政府の人気は依然として衰えを知らなかったのである。そこには以下のような感覚が存在しているようにみえる。すなわち、公益のために献身することを仕事として選択した人びと、あるいはたんに自分の仕事が生産的であり有益であると感じて満足している人びと──こうした人びとこそが、公益のために集団的に犠牲を払うという精神性[エートス]を一方的に引き受けるべきである、という感覚である。
このような感覚が意味をなすのは、そもそも仕事──より具体的には支払い労働[ペイドワーク]──は、それ自体で価値であるという想定があるからこそである。つまり、それ自体に価値があるからこそ、仕事をしている人間の動機であったり、仕事の諸効果にかんしては、せいぜい二の次にすぎないのである。「もっと仕事を」よこせという左翼のデモに参加する人びとと、デモの通り過ぎるのをみながら「〔そんなヒマがあるなら〕仕事を探せよ!」とボソボソ呟いている右翼の傍観者は、コインの裏表なのである。仕事は善であるというだけでなく、仕事をしないのは最大の悪であるという、広範なコンセンサスが存在するようにおもわれる。つまり、よろこびのない仕事であっても勤勉に取り組もうとしない人間は、悪人、たかり屋、怠け者、卑劣な寄生虫であり、共感にも公的救済にも値しないとされる。こうした感覚は、怠け者や「福祉の女王[ウェルフェア・クイーン]」に抗議する保守派のみならず、「一生懸命働く人びと」が苦しんでいる状況を問題視するリベラルな政治家たちにも反響している(そんなにがんばらないで働いている人びとはどうでもいいのだろうか?)。もっと目を惹くのは、同じような価値がいまではトップにもむけられることである。もはや有閑階級[アイドル・リッチ]がさして噂の種になることもない。有閑階級が存在しないからではなく、遊んで暮らすこと[アイドルネス]が称賛の的ではないからである。1930年代の世界恐慌の時代、困窮した人びとは、プレイボーイな億万長者たちのロマンチックな非日常的冒険を描いた上流社会映画を好んで観ていた。いまでは、困窮した人びとも、仕事中毒的ワーカホリックなスケジュールを寝る間も惜しんでこなす英雄的なCEOたちの物語により惹きつけられているようだ。イングランドの新聞や雑誌の記事では、王室にさえも同様の視線がむけられている。つまり、それらの記事が伝えているのは、王室は一週間のうちの膨大な時間を儀礼的な式典の準備とその実行に費やしているため、プライベートな時間をほとんどもてないでいるということである。
— 第6章

労働教の支配する現代では、労働することが絶対的な善[good]で、労働しないことは悪[evil]である。僕たちはとにかく忙しく何かをしていなければならない。休暇は労働力を再生産するためにあるものだし、その休暇中でさえ消費という名の労働に従事している。商品を消費することは、需要という形でこの世に新たな労働力を要請することである。労働のための労働、生産のための生産、ただシステムを延命させるためだけの無限の再生産を繰り返しながら、その中でどうにか無理やり捻出した「自分の時間」で、ようやく僕は本当の仕事に従事することを許される。たとえば、オープンソースのプロダクトを開発したり技術情報を発信したり特定の文化の史料を残したり、といったような活動だ。これらは、微細ではあるが、社会に対して何らかの影響を与える本当の仕事(リアルワーク)である。こういった仕事に従事する権利は、無限の再生産の中でもみくちゃにされながら、そのみじめさに耐えることによってようやく手にできる権利である。

「20年前だったら、会社はオープンソース・ソフトウェアには目もくれずコア技術は社内で開発していましたが、いまやオープンソースに大きく依存していて、ほとんど無償で得たコア技術の尻ぬぐい[ダクト・テープ]のためにのみ、ソフトウェア開発者を雇っているという状況です。
つまるところ、日中はつまらない尻ぬぐい[ダクト・テーピング]をやって、夜中にコア技術にかかわるやりがいのある仕事をやってるというわけです。
これが興味をそそる悪循環につながっています。つまり、無償でコア技術にかかわる仕事をしようとするひとがいるから、どの会社もこうした技術に投資しない。投資が不活発だと、未完成であったり、粗悪であったり、粗削りであったり、バグを抱えていたりなどなどの欠陥も大きくなる。すると、尻ぬぐい[ダクト・テープ]が必要になる、かくして、尻ぬぐい仕事がはびこる、というわけです」
逆説的にも、ソフトウェア・エンジニアたちが、たんにそれが好きだからという動機から、人類への贈り物としてオンライン上で協働して無償での創造的労働をおこなえばおこなうほど、別のソフトウェアとの互換性を考慮に入れる動機づけ[インセンティヴ]は減退し、こうして、このエンジニアたちが、そこからくる欠陥に対応すべく昼間は雇用されるということになる。つまり、無償ではだれもやりたがらないメンテナンスの仕事のために雇われるわけだ。
— 同前 第6章

逆に、社会に必要とされる仕事(リアルワーク)によって生計を立てている人は、もうすでに生活の中でその権利を行使しているのだから、低賃金・長時間労働によってこのような活動を制限される。社会奉仕活動、特に無給のボランティアに従事することができるのは、生活に余裕のある人だけである。

この本の著者、グレーバーの論の立て方が腑に落ちない人もおそらくいると思うが、エリートと非エリートの世界を行き来している僕の実感には非常に合致する。そして現代社会に生きる誰もが覚えているであろう違和感の正体も薄ぼんやりと見えてくる。やはりキーワードは、経済成長と労働教である。そもそもこの新興宗教の興りからして間違っている。上で述べたように「働かざる者食うべからず」とは、資本家に向けられた言葉だった。わかりやすく言い換えれば、不労所得(働かず)によって富(食い扶持)を増やす状態を制しているのだ。富それ自体が富を増やすような社会であれば、富を持たない者はなすすべもなく搾取され続け、必然的に格差は広がり、世界にみじめさが蔓延し、革命や戦争が勃発し、さらに世界に悲惨が撒き散らされる。それは20世紀までの歴史が証明している。「働かざる者食うべからず」という言葉は、この資本主義の必然を修正する考え方である。そしてそれは、最大多数の最小悲惨という、人類の普遍的な価値観に基づいている。根本にある部分、最初の目的は、世界からみじめさを減じることなのだ。その原理を忘れ、上っ面の文言だけを取り出してマントラとした労働教が、21世紀の現代において世界に悲惨を撒き散らしている。なぜか? 経済成長に限界が見えてきたからだ。いちじるしく成長を続けている間は、どれだけ生産性を上げようと問題ない。必要とされる労働力と供給される労働力では前者のほうが勝る。この状態は問題ないのだ。しかし80%を90%に、90%を95%に、95%を98%に……と成長を続けていくうちに、成長がどんどん難しくなってくる。そしてここでも大学受験の無限競争で見たお決まりの光景が広がる。99%を99.9%に、99.99%に、99.999……こんな成長に何の意味があるのだろうか? 新自由主義者はこう反駁するかもしれない。それでも成長しなければ国際競争に負けて、結果的に国民がみじめな思いをすることになるんだ! と。しかし国際競争に負ける「前」に、すでに国民がみじめな思いをしているのはどういうことだろう? 順序がおかしいのだ。優先順位がおかしいのだ。世界からみじめさを減じるために世界のみじめさを増やしてどうするのだ。さらに言えば、大学受験の無限競争と同じく、コストに対してリターンが見合っていない。99.9%→99.99%で得られる社会的利益(経済の微成長)に対して社会的損失(労働者が感じるみじめさ)が見合っていない。こんなものはまったく経済的じゃない。ブルシットジョブに従事する労働者が感じるみじめさも、リアルワークに従事する労働者が感じるみじめさも、すべて公害である。公害には対策が必要である。この本でグレーバーが提案するのは、意外性皆無の当然の帰結、ユニバーサルベーシックインカムだ。

控えめなベーシックインカムのプログラムでさえ、最も根本的な変革にむかう最初の一歩となりうる。すなわち、労働を生活から完全に引き剝がすことである。前章でみたように、労働の内容にかかわらずあらゆる人びとに同一の報酬を支払うべきだという主張は、道徳的にも擁護できるものである。とはいえ、前章で引用した議論においては、労働に対して報酬を受け取っているということが前提とされている。人びとがどれだけ必死にどれだけ多くのものを生産したのかを測定する必要はないとしても、このばあい、最低限、人びとが実際に働いているのかどうか監視するための官僚制のようなものが必要とされるだろう。〔一方〕完全なベーシックインカムによるならば、万人に妥当[リーズナブル]な生活水準が提供され、賃金労働をおこなったりモノを売ったりしてさらなる富を追求するか、それとも自分の時間でなにか別のことをするか、それにかんしては個人の意志にゆだねられる。こうして、労働の強制は排除されるであろう。ひるがえって、それによってより好ましい財の分配方法が切り拓かれるかもしれない(貨幣はつまるところ配給〔割り当て〕切符なわけであるが、理想的な世界では、おそらく可能なかぎり配給への依存は少なくしたいと考えられているだろう)。(中略)
問題は、特定のゲームが脱出不可能なことである。そうすると問いは、つぎのようになる。上司と相対したばあい、「オレンジ」[引用者注:本書第4章参照、SMプレイを中断する合言葉の例]に該当するものはなんで
あろうか? あるいは、横柄な役人や、不快な気持ちにさせる指導教員、虐待的ふるまいのボーイフレンドに対する「オレンジ」は?
いつでも脱出可能であるがゆえに遊戯[プレイ]している感覚でおこなえる、そんなゲームを発明できるだろうか? 少なくとも経済的領域においては、答えは明白である。職場政治のいわれのないサディズムの力学はすべて、経済的ダメージを感じることなく「辞めてやる」とはいえないことに基盤をおいている。何ヶ月も前に改善した件で何度も呼びだされることに嫌気がさしてアニーが職を辞したとしても、彼女の収入は変わらないと上司がわかっているならば、そもそもこの上司は彼女を呼びつけるようなことをしないであろう。この意味でベーシックインカムは、労働者に上司に対して「オレンジ」という権能を与えることになる。
これは二つめの論点につながる。所得が保障された世界では、アニーの上司は、少なくとも、最低限の気品と敬意をもって彼女に接しなければならなくなるだけではない。普遍的ベーシックインカムが制度化されたならば、アニーのような仕事が長期間、維持されうると想像するのはきわめて困難である。生存維持のために働く
必要がなくなった人びとが、依然として歯科助手やおもちゃ職人、映画館の案内係、タグボートの操縦士、あるいは下水処理場の調査官に就くことを選択するという事態であれば、かんたんに想像できる。それらの仕事をいくつか兼ねてやることを選択するといったことも、なおいっそう想像しやすい。ところが、収入確保の心配なしに生活している人間が、すすんで医療費管理会社のための書類作成に相当の自分の時間を割くなどといった事態を想像するのはきわめて困難である──部下にはおしゃべりの禁止されているオフィスならなおさらである。
(中略)労働にかかわりのない万人の生活保障が提起されると、最初にあがる典型的な反論は、そんなことをしたら人間はたんに働かなくなるだけだというものである。しかし、これは明白な誤りであり、ここではあっさりと退けてよいと思う。二つめのより深刻な反論は、たいていの人間は働くかもしれないが、その多数が自己満足的な関心でのみ働くのではないか、というものだ。つまり、へたくそな詩人とか、ひとをイラつかせるようなパントマイマーや、イカれた科学理論の布教者などで街は満ちあふれ、だれもやるべきことをやらなくなるだろう、というわけだ。ブルシット・ジョブ現象が痛感させてくれるのは、そのような発想の愚かさである。自由な社会の一定の層が、それ以外の人びとからすればバカバカしいとか無駄だとおもえる企てに邁進するであろうことはあきらかである。しかし、そのような層が、10や20%を超えるとはとても想像しがたい。ところが、である。富裕国の37%から40%の労働者が、
すでに自分の仕事を無駄だと感じているのだ。経済のおよそ半分がブルシットから構成されているか、あるいは、ブルシットをサポートするために存在しているのである。しかも、それはとくにおもしろくもないブルシットなのだ! もし、あらゆる人びとが、どうすれば最もよいかたちで人類に有用なことをなしうるかを、なんの制約もなしに、みずからの意志で決定できるとすれば、いまあるものよりも労働の配分が非効率になるということがはたしてありうるだろうか?
— 同前 第7章

ベーシックインカムの話をすると秒で「財源は?」という質問が飛んでくるが、この質問者に「そもそもお金って何?」と問い返して、何らかのしっかりした答えが返ってくるケースは稀である。というかこの質問に完璧な解答をできる人間は地球上に存在しない。お金とは何か。それはいまだ解き明かされていない、人類史上最大の謎である。誰もがなんとなくお金を使ってなんとなく暮らしているが、それが何なのか、実のところ、誰もよくわかっていないのだ。経済に明るくない人は「またまたご冗談を」と思うかもしれないがこれは本当だ。お金の専門家である経済学者でさえよくわかっていない。みんな言っていることはバラバラだ。「お金ってこういうものだよ」と自信を持って言える人がいるなら、ぜひとも論文にまとめてみよう。それが完璧な解答ならノーベル経済学賞間違いなしである。僕もこれまで何年にもわたって「お金とは何か」について調べ、学んだが、まだぜんぜんわからない。ひとつだけ確実に言えるのは、わからないのは自分の頭が特別に悪いからではなく、まだ誰もわかっていないからなのだ、ということだ。僕の中にもお金についてなんとなくぼんやりとしたイメージはあるが、それを言語化しようと思ったら本一冊書くくらいの文量になるのは確実なので、本稿でそこに踏み込むのはやめておこう。この場において重要なのは、ベーシックインカムか負の所得税か、どういった形のものになるかはわからないが、そろそろ再分配の仕組みを大幅に見直さなければならない時期に来ている、ということだ。ブルシットジョブのみじめさも、リアルワークのみじめさも、およそ限界に達している。前掲書がベストセラーになっているのがその証左だ。この事実が示すこと、それはつまり、この公害をどうにかしなければならないと多くの人が思っている、ということだ。そして公害は、公[public]のものなのだから、社会の仕組みによってしか解決できない。そして社会の仕組みを変えるには、社会通念、つまり倫理を変えなければならない。さっき書いた「時代の速さに倫理が追いついていない」の意味はこれである。しかしそれも追いつき始めているように思える。そのギャップは徐々に埋まりつつある。

7月1日から放送の「3、4時間」編では、人気漫画「うる星やつら」の主人公・ラムちゃんに扮したすみれさんが、都会の上空を飛びながら商品を訴求する。バックの楽曲は、「24時間戦えますか」の歌詞で知られる「リゲイン」のCMソング「勇気のしるし」を2014年バージョンにアレンジしたもので“24時間戦うのはしんどい”ので“3、4時間戦えますか?”と今風になっている。
「24時間戦うのはしんどい」ので 「3、4時間戦えますか?」 — ウェブ電通報

広告は世相を映す鏡である。時代感覚にマッチしたものでなければウケない。1989年に「24時間戦えますか」と勇ましく歌っていたリゲインのCMはまさに当時の時代感覚にマッチしていたが、2014年版では「3、4時間」と改変されている。わずか四半世紀でここまで世相は変わったのだ。前者のCMが流れていたころ、新自由主義の語る物語はたしかに一定の説得力があった。規制緩和、民営化、とにかく市場のプレイヤーに自由にやらせれば経済全体のパイが大きくなって、絶対的貧困は底上げによってなくなっていく。実際問題、世界全体の貧困はどんどん減少している。世界からみじめさが減じている。これは事実[fact]だ。しかし時代が下って成長の余白がなくなっていくにつれて、これまで通じていた法則が通じなくなってきた。世界から悲惨を減じてきた新自由主義それ自体が、世界に悲惨を撒き散らすようになってきた。新自由主義は、もうその役割を終えようとしている。最大多数の最小悲惨という普遍的価値観に従って、もう終わらせなければならない時期がきたのだ。「働かざる者食うべからず」という自己責任論を同一にする労働教も解体されつつある。リゲインのCMの変化がその証左だ。そう遠くない未来に、労働は絶対的な善[good]ではなくなり、社会と関わるパスのひとつにすぎなくなるだろう。するとどうなるか? 「経済的価値がその人自身の価値である」という誤謬が霧散するのだ。福祉はもはや福祉と呼ばれなくなり、そこにあるのが「あたりまえ」のものになる。その社会では、どれだけ機械化・AI化が進んで労働市場から人がはじき出されても、まったく問題なくなる。そこで減じた人間の「経済的価値」は、その人自身の価値にはまったく関係がないからだ。そのことを社会の構成員全員が共通認識として持っているからだ。だから誰も “I don’t deserve.” 「私は(福祉を受けるに)値しない」などと考えることはない。何らかの職に就いている人も、「仕事がつらい」と愚痴をこぼすことはあるかもしれないが、それは現在の意味とはまったく異なっているはずだ。現在は「職務上の負荷」と「みじめさ=人間の尊厳を傷つけられること」が混濁しているが、未来において、後者は消え去ってしまうだろう。だから「仕事がつらい」は「職務上の負荷が高い」以外の意味を持たなくなる。その社会では「ちょっとした刺激」を求めて多くの人が職に就くはずだ。労働からみじめさがなくなるというのはこういうことだ。

僕は夢を見すぎだろうか? こんな未来は決してやってこないだろうか? やはり新自由主義は死なず、資本の嵐はさらに吹き荒れ、ついには「人類家畜化計画」とやらが完成するのだろうか? そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。未来は誰にもわからない。とはいえ、僕がこのような楽観的なビジョンを持っているのは、それなりに理由がある。世界経済において、たしかな地殻変動が起こっているのだ。しかしそれについて語る前に、労働教が解体されたあとの世界、労働が絶対的な善[good]ではなくなった世界で、何を信仰して生きていけばいいのか、それを考えてみたい。

推し[idol]文化

この先の未来、もし私の世界が真っ暗になったとしても、えりぴよさんの光さえあれば私は歩いていける。
「推しが武道館いってくれたら死ぬ」 アニメ8話

今までゲーム会社で働いてて、こんな半ば道楽みたいな仕事して生きるのに不要なもの作ってなんでお金もらえるんだろうと思っていた。音楽やアイドル産業についても同じように思っていた。第一次・第二次産業と違ってサービス業は価値が低い、なくても誰も困らないと思っていた。だけど好きなゲームやアイドルのおかげで毎日の辛い労働に耐えられると思っている人が少なくないことを知り、やはり娯楽って人が生きるのに必要なのか?と最近わからなくなった。
もしかして娯楽って人が生きるのに必要なんじゃないだろうか — はてな匿名ダイアリー

生きるのに必死な状況は辛いから、農作業にも唄や笑いが必要とされたのだと思う。
もしかして娯楽って人が生きるのに必要なんじゃないだろうか -はてなブックマーク

仕事して家に帰るだけの生活なのだが
世の中のいろんな税金でお金ががっつり減ってお金はあまり残らない。
こんな、仕事のためだけに生きるのは嫌だと考えていると、ふと頭のなかに浮かんだ事がある。
「寿司が食いてえなあ」
自然と俺の頭の中には寿司が思い浮かぶようになっていた。
美味しいものを食べるというのは
やはり生きることで重要なことなのだと実感した。
人生追い詰められてくると
自分は何を追い求めていたのかも
直感的に理解するんだろうな。
寿司という様々な味を楽しめる最高の食べ物。
俺はこれからも寿司を追い求めたい。
給料が低いからたくさんは食えないが
寿司を食うためにがんばろう。
あぁ寿司が大好きだ。
寿司の事を考えて生きる — はてな匿名ダイアリー

美味いものを食うために頑張って働く、それって素晴らしいことじゃないか。
寿司の事を考えて生きる — はてなブックマーク

それで初めてのコミケ。
最初の一時間は全く売れなかったから、「ああ、やっぱり。不安的中しちゃったよー。もう止めとけばよかったよー」とそのまま帰って寝ようと思った。
11時ごろに最初の一冊が売れた。
社会と初めてつながったような気がした。
買ってくれた人に「ありがとうございます」と心から言えた。
心からの言葉なんて、いったい何十年ぶりだろう。
数十部売れた。
生きててよかったと思った。
コミケが早く復活してほしい。 — はてな匿名ダイアリー

そんなある日、僕が作ったシステムのメインユーザーである他部署の偉い人が来て、開口一番こう言った。
「あのシステムいいね!」
この機能が素晴らしい、とか、あの発想はなかったわ、とか、とにかくべた褒めして、そして去っていった。機能追加要望の前口上だと思って身構えていた僕は拍子抜けした。「あの人が他人を褒めることなんてめったにないよ、すごいね」と近くの席の人が言う。
そのとき僕は「カチリ」という音を聞いた。
どこにもはまることのない歪な歯車。その僕が、社会という大きな機械の中に組み込まれる音だったのだと思う。まあすぐに外れてしまうのだけど。その一瞬だけは、僕は確かに社会の一部になれたのだ。
“Hello world!” — はてな匿名ダイアリー

はてな匿名ダイアリー(以下、増田)は僕の主要生息地である。増田は国会で取り上げられたこともあるし、たまにSNSでバズったりするので知っている人も多いと思うが、そうして表層化する投稿は上澄みであり、普段の投稿はそれはもうひどいものだ。まともな感性の持ち主なら10分も滞在できないだろう。名前を隠して楽しく日記、日記を書く、記を書、でもキモ、再投稿は甘え、ゴミを貼るな、記を書、脱糞、パンティー、記を書、うんち、そうだねうんちだね、記を書、記を書、記を書、記を書、記を書、記を書、永遠に続くかと思われた記を書スパムはついに運営の手によって撲滅され、2021年からは弱者男性論が猛威を奮っている。なんでみんな日記サービスで討論してるんだろうとか思いながら僕は普段「フルチンアーマー」とか投稿している。何を言っているのかわからねーと思うが、むしろこれがわかったらやばい。増田はインターネットの極北だ。そこにあふれる言葉は怨嗟にまみれていて、どす黒く、重苦しい。しかしそんな空気の中でもなお語られる、社会とのつながりに意味を見出そうとする言葉は、増田全体を覆う闇とのコントラストで、際立って見える。最後に引用した僕の投稿がバズった理由も、そのあたりにあるのではないだろうか。人間は社会の中でしか存在できない。真っ暗な宇宙空間に浮かぶ人間の形をした肉の塊の中に脳があり、それが何らかの活動をしていたとしても、そこに意識と呼べるものは存在しない。そこに人間と呼べるものは存在しない。自分以外の他者がいてはじめて、その肉の塊は人間となる。そして他者とは社会のことである。つまり人間の必要条件は社会である。だから社会が作られる。その社会がまた人間を作る。その繰り返し。

赤ん坊は大人の髪をひっぱって遊ぶものだ。大人が痛がろうがおかまいなしに。赤ん坊にとっては相手が痛がっているかどうかは問題ではなく、自分が社会に何らかの影響を与えていることがただ喜ばしいのだ。ずっとそれを繰り返していたいと赤ん坊は願う。だからそれを制止されると癇癪を起こす。自分が社会に何らかの影響を与えている感覚が突然失われてしまったことに戸惑い、どうしていいかわからなくなるのだ。大人が社会と関わるときも同様のことが起こる。「社会の歯車」であることは、本来、喜ばしいことのはずである。それは、自分が社会に何らかの影響を与えていることを意味するのだから。誰にも必要とされない職業は職業として成り立たない。誰かが必要とするからこそ職業は職業として成り立つ。そして誰かに必要とされたとき、人は自分の存在に価値を、人生に意味を見出だせる。自分はこの世界に生きていてもいいのだと思える。救われた気持ちになる。しかし仕事の場が家庭から工場へ移り、作業プロセスが分割され、グローバリゼーションが進み、惑星規模の分業体制が整った現代においては、自分がいったい何をしているのか、自分の仕事が社会に対してどういう影響を与えているのかを知ることは困難だ。だから大人は癇癪を起こす代わりにこうぼやく。「社会の歯車にはなりたくない」と。

機能別分業で個々のタスクが細かくなりすぎると、作業者は自分の遂行していることが全体に対してどのような意味をもっているのか分からなくなる、という問題が発生する。自分たちの組織が全体として何を社会に提供しているのかを、言葉では知っていても、真に理解しているわけではない。自分の作業がその組織全体の中で、どのような位置づけにあるのか、どれほど重要であるのか、ということは分かっていない、という状況が発生する。
沼上幹「組織デザイン」 p.78

こうして、現実の労働がうんざりするほどばかばかしくて、たいていは無意味に思われても、だれが悪いというわけではなくなる。責むべき対象がなくなるとともに、とるべき行動もわからなくなる。人びとの苦しみのよって来たるところを同じ根にまでたどることができなくなる。農業あり、牛乳配達あり、工場労働あり、それはそれは多彩な働き口があるように見えて、しかもどこでも、職制の息づかいを背後に感じながら退屈な課業をせっせとつづけて、その努力が結局は不思議な茶色の封筒に化ける、それが自然のならわしのように見えるのである。
ポール・ウィリス「ハマータウンの野郎ども」 pp.380–381

以下は僕が半導体工場で働いていたときの描写である。

半導体レーザーは光ファイバやCDプレイヤー、POSレジのバーコードスキャナなんかに使われている部品だ。この製造には多くの工程が必要になる。さまざまな素材を薄く重ねあわせた円盤状のウェハを作り、それをバー状に分割し、へき開面に反射膜を形成し、そのバーをさらに小さく割ってチップにし、組み立て、エージング等をへて完成する。僕は反射膜を形成する工程に配属された。導電靴を履き、顔だけが出る防塵服を着てマスクをし、エアシャワーを浴びてクリーンルームに入る。作業机にそなえつけられた導電バンドを手首に装着し、ピンセットでバーを治具にセットし、特殊な大型装置で反射膜を形成したあと、またピンセットでバーを治具から取り外し、顕微鏡で反射膜の状態を検査する。その繰り返し、繰り返し。前工程から流れてくるものを後工程に流すだけの、どこにでもあるライン作業だった。
休憩時間は暇だったので会社に置いてある半導体レーザーの本を読んでいた。自分の工程が何をやっているのか、というのはこの本で知った。ラインリーダーは実作業についてのこと以外は教えてくれなかったのだ。どうもへき開した両面に反射膜を形成するのだけど、片方はまったく光を通さず、もう片方は少しだけ光を通すようにするらしい。そうやって中で光を増幅させてレーザー光を取り出すらしい。そうして本から知識を得ていたのだけど、一緒に働いている人と会話していて気づいたことがある。みんな自分の工程が何をやっているのか、まったく気にしていないのだ。そういえばよく考えてみればコンビニで働いていたときも、POSシステムの機能をすみずみまで試したり、日販がどうのと気にしていたのは、バイトの中では僕だけだった気がする。もしかしてそういうものなのだろうか? 仕事とは、わりあてられた目の前の作業だけをやっていればいいものなのだろうか? たんに自分の人生の時間を換金する行為……それが労働というものなのだろうか? もしかしたらそれが正解なのかもしれない。そうすれば僕みたいなクズでも社会の歯車になることができるのかもしれない。
あまり難しいことは考えず、目の前の作業だけに集中するようにした。でもそうするとまたあれが襲ってくるのだ。覗きこんだらどこまでも沈みこんでいきそうな、あの底の見えない空虚さが。自分が機械になったように思える何の刺激もない単調な作業。もうそろそろ昼だろうと思ったら、始業から一時間もたっていない。仕事が終わればスーパーに寄って半額惣菜を買い、薄暗く誰もいない空っぽの部屋に帰ってモソモソと食べ、パソコンのファンの音を聞きながら寝る。眠りの中で夢は見ない。休日も出かける場所などなく、プログラムを組むか、薬をキメるかしかない。たまにテレビを見ると、バラエティ番組ではみんなが笑っていて、グルメ番組ではレポーターがおいしそうなものを食べている。何もかもが遠い世界のことのように思える。寝て、起きて、仕事をして、その繰り返し、繰り返し。顕微鏡を覗きながら考える。自分は何をやっているんだろう。一生こんなことを続けるんだろうか。どこにも行けず、何者にもなれないまま、人生を終えるのだろうか。そんなときには夢を見る。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のセルマのように。だけどミュージカルじゃない。旅の夢だ。見知らぬ国をどこまでも旅して、その旅路の途中で人知れず野垂れ死ぬ。あのころの僕は、そんな光景を顕微鏡の中に幻視していた。
「ハッピーエンドは欲しくない」 第2章

工場のライン作業に従事したことがある人はこの感じがわかるのではないだろうか。この空虚さ、この倦怠感が。しかしこれは誰のせいでもない。どこにも悪者はいない。どうにもならない問題だ。惑星規模の分業体制を構築したことによって、僕たちは現在の豊かさを手に入れたのだから。いまさら家内制手工業の時代には戻ることはできない。もし社会の仕組みをすべて理解することができるなら、このようなライン作業に従事していても、自分の手元の細かな作業が社会に対してどのような影響を及ぼすのか実感できて、空虚さも倦怠感も感じないかもしれないが、複雑すぎる現代社会の仕組みをすべて理解できる人間などいないのだから、僕たちにできるのはせいぜい「社会の歯車にはなりたくない」とぼやくことだけだ。とはいえ、「社会の歯車」という言葉をポジティブに捉えられる瞬間は、稀にだが存在する。上に引用した増田はまさにその瞬間を切り取った文章である。人の営みを、生活を、人生を、人と社会との連関を感じられる文章は、善い[good]ものだ。2020年に放映されたアニメ「推しが武道館いってくれたら死ぬ」にも、まさにそんなシーンがあった。

© 平尾アウリ・徳間書店 / 推し武道製作委員会

わたしのがんばりが舞菜のCDになり、その売り上げで舞菜はパンを食べ、それが舞菜の血肉となるなんて! 最高ー! 間接的にわたしは舞菜と生きているのだー!
「推しが武道館いってくれたら死ぬ」 アニメ7話(原作3巻13話)

このシーンを見た瞬間、あらゆる論理、あらゆる道徳をすっ飛ばして、直感で「善い[good]」と思った。なんて善い[good]生き方だろう、と思った。この作品は基本的にコメディなので労働部分はデフォルメされているが、それでも社会環境は現実のコピーである。それなら主人公は、現実の僕ら同様、ベルトコンベア式のライン作業に空虚さや倦怠感を覚えるはずだ。しかしここにそういった要素はまったく見当たらない。なぜほとんど同じ社会環境なのに、彼女はこんなにも楽しげに、こんなにも誇らしげに、この現代社会を生きているのだろう? 答えは、推し[idol]の存在である。違うのはそこだけだ。本当にたったそれだけの違いでしかないのだ。推し[idol]がいるという、ただそれだけの理由で主人公は、現代社会のどうにもならない問題をあっさり消し飛ばしている。推し[idol]がいることで、主人公は自分の労働がたしかに社会につながっていると実感している。どれだけ無味乾燥に見えても、自分の成すことはたしかに推し[idol]につながっているのだと確信している。自分が生産したパンを推し[idol]が直接食べることはないかもしれないが、そのパンを食べた人がそれを活力として別の商品を生産し、推し[idol]がそれを消費するかもしれない。主人公はその推し[idol]から活力をもらい、また労働にいそしむことができる。そしてその労働によって生産された商品を消費した誰かが別の商品を生産し……やはりそれは巡り巡って推し[idol]にたどりつく。もはや社会の仕組みがどれだけ複雑だろうと関係ない。すべては推し[idol]に収束するのだから。この仕組みだけを理解していればそれでいい。それは世界を狭めることを意味しない。主人公と推し[idol]の関係性は決して閉じていない。それは社会に向けて開かれている。ここにマルクスが言うような「疎外」は見当たらない。ここに疎外された人間はおらず、疎外された労働もない。このアニメのキャッチコピーは「きみのために生きてる」だが、主人公えりぴよは、「推し[idol]のために生きる」ことで、社会に包摂されているのだ。これってすごいことじゃないだろうか。なぜならこれは決してフィクションの話ではなく、実際に、現代にはすでに相当数このような人間がいるのだから。2021年現在、推し[idol]文化がかなりポピュラーになっているのは周知の通りである。ここで見たように、推し[idol]文化が現代の閉塞感をたやすく吹き飛ばせるパワーを秘めているのなら、これは次の時代の「あたりまえ」になりえるはずだ。労働教が解体されたあとの新しい信仰になりえるはずだ。

© 平尾アウリ・徳間書店

舞菜のために働くの超気持ちいい!
平尾アウリ「推しが武道館いってくれたら死ぬ」 原作3巻13話(アニメ7話)

有閑[idle]文化

推し[idol]文化は、次の時代の有閑[idle]文化へ至る道を垣間見せてくれる。これは労働が絶対的な善[good]でなくなったあとに人類が持て余すことになるであろう暇[idleness]をどう扱えばいいのか、という問いに対する解答のひとつである。有閑[idle]の時代が来るのは歴史の必然であり、おそらくそれはすぐそこまでせまっているのだが、それがゆえに現在のアイドルオタクたちは過去の道徳と未来の道徳に引き裂かれている。

叔母「えりちゃんはもう就職したんだっけ?」
えり「え……今はパンを裏返して……」
叔母「バイトじゃなくて、仕事よ」
叔父「何だ、えりちゃん、まだ就職してないのか」
えり「その……いまはまだ就職はいいかなって……」
(中略)
叔母「いま就職しなくていつするの? 仕事探すより大事なことなんてないでしょ?」
叔父「いいかい? 『働いてやる』じゃなく、『働かせてもらってる』という精神でね — 」
(中略)
えり(自室)「これだから年末年始を家で過ごすのは嫌なんだ……」
「推しが武道館いってくれたら死ぬ」 アニメ9話(原作3巻16話)

上のような会話は現代日本の至るところで見られるものだが、100年単位で歴史をズームアウトした視点から見れば、これはただの主義思想の違いでしかないとわかる。えりぴよは推し[idol]を推すことを絶対的な善[good]とする推し[idol]主義者であり、親戚たちは世間の価値観に従うことを絶対的な善[good]とする世間主義者である。序文で述べたように、○○主義[-ism]とは「誰かが勝手に言いきったもの」でしかないので、どちらも真に絶対的なわけではない。自由主義と功利主義が対立するのと同じようなものだ。現在は推し[idol]主義が劣勢だが、労働教が解体されたあとの世代がこのシーンを見たら「いまいちよくわからないな」と思うことだろう。そのときには親戚側のセリフが「あたりまえ」ではなくなっており、そもそも対立が発生しないからだ。世間主義者は世間の価値観を善[good]とするのだから、世相が変われば善[good]となる価値観も変わるのである。このことは、マリアやイエスを信仰する(推す)人たちがその信仰によって社会に包摂されてきた歴史を振り返ればよくわかる。そこでは信仰と世間の価値観が一致しているから対立が発生しないのだ。

とはいえ、現代日本における世間主義者たちの言葉はそれなりの強度がある。「こんな生活を続けてどうなるんだ」「将来のことをもっと考えろ」「いつまでも子どもじみたこと(アイドル・ゲーム・アニメ・漫画・etc)やってるんじゃない」「そろそろ大人になれ」「これはお前のために言ってるんだ」「将来つらい目に遭うのはお前自身なんだ」。オタク趣味に対する世間の目はかなり優しくなってきたが、それでもこのような考えは根強く残っている。つまり、「それはいつか『卒業』するものなのだ」と。なるほど、たしかにそういうものかもしれない。飽きたり、生活環境や人間関係が変わって自然と離れてしまったり、さまざまな要因で卒業することはあるだろう。しかしこのような言説にはどこか違和感を覚える。どこがおかしいのだろうか? それは、「人生を線形だと思っている」ことではないだろうか。少しずつレベルを上げて、一本道のストーリーを進めていって、最終的にそれまでの努力が報われてエンディングに至るような、線形なゲームを誰もがプレイしているのだという考え方。断言するが、この認識は誤りだ。第一に、人生というゲームはレベル制ではなくスキル制である。スキルごとのレベルはあるが、スキルポイントをどのように振り分けていくかは各人の自由だ。第二に、ストーリーは一本道ではなくアトランダムで、さまざまな実績を解除していく方式である。実績Aを解除しないと実績Bに挑めない、といった制約は各所にあるかもしれないが、それは実績Cにはまったく関係がない。実際、さも「私は世間を知ってますよ」という態度をとっている人が的外れなことを言っていたりするのはよく見る光景だ。しかしそれは決して恥ずかしいことではない。誰も世界のすべてを知ることはできない。誰もが世間知らずなのだから知らないことがあるのはあたりまえである。むしろ恥ずかしいのは、「自分は世間知らずではない」といきがることの方だろう。「大人になる」という実績は「自分は世間知らずだ」という事実を受け入れ続けることによってのみ解除される。100年にも満たない人生で解除できる実績の数なんてたかが知れている。だから歳をくってからそれまでいっさい縁のなかったオタク趣味を始めたってまったく恥ずかしいことじゃないし、同様に、趣味に没頭しすぎてまったくビジネススキルがないオタクが、歳をくってからスキルポイントの振り分け方を見直したりするのも恥ずかしいことじゃない。そもそも、変化の激しい現代においてはゲームのルール自体が頻繁に変わるのだ。対人FPSや格ゲーをやっている人は非情なナーフで泣いた経験があるだろう。現実におけるスキル見直しもアップデートパッチ適用「後」にやらざるをえない。

「世間の価値観」という中ボスは時代が下るにつれて弱体化している。いまとなっては強敵というほどでもない。難なく攻略可能だ。しかしその次に待ち受けるラスボス、「内なる価値観」はかなり手強い。本稿でもすでに何度か述べているか、本当に倒さなければならない敵は、自分の内側にいることが多いのだ。

えり「はあ、やっぱりフリーターはダメだな……。会社員してたほうが金銭的な余裕が……」
くまさ「会社員はね、休みが取れないんですよ。僕はそれで会社を辞めました」
えり「くまささん、クズだなー! 私も就職するのやめまーす!」
基(クズふたりだ……)
「推しが武道館いってくれたら死ぬ」 アニメ4話(原作2巻8話)

銀行員が横領をしない理由は大きくふたつある。ひとつは、横領によって得られるメリット(お金)が、横領が発覚したときのデメリット(刑罰・失職)に見合わない、というものだ。銀行員が横領をしないのは、あくまで独善的にメリットとデメリットを計算した結果である。この計算式を機能させるために銀行員には高給が支払われるのだ。大企業に勤めるエリートほど仕事を辞めにくく、フリーター[part-time worker]が仕事を辞めやすいのも同様の理由である。何十年も同じ仕事を続けるのが善い[good]こととは限らないし、同様に、仕事を転々とするのが善い[good]こととも限らない。誰もが自身の環境に応じてこれが自分にとって善い[good]だろうと思える独善的な生存戦略をとっているにすぎない。環境だけでなく主義思想が違えばこの生存戦略もガラリと変わってくるが、どのような戦略だろうと法にふれない限りは「独善的な生存戦略をとる」という点自体は現代社会において許容される。いやむしろ推奨さえされる。自由市場では誰もが自身の得る価値を最大化しようと動くことによって、見えざる手が働き、最適で最善の社会に至るはずなのだから。ただその「価値」とやらは人それぞれ体系を異にするもの(これが経済学の最も難解な部分)なので、最低限共通化可能な部分をまとめた価値体系、つまり法が必要になってくる。

法は人の意識が作るものだが、法もまた人の意識を形成する。両者は相補的なものである。銀行員が横領をしない理由のふたつめは、この相補性によって自身の内側に形成される道徳規範である。それは前段で語った実際的なデメリット(刑罰)の計算結果による意思決定とは異なる。「今日から盗みは合法です!」と政府が布告したとしても、多くの人は戸惑うことしかできず、実際に盗みを働く人は少ないだろう。前者の人たちが従っているのは法ではなく、自らの内側にある道徳規範、罪の意識である。前述のように法と人の意識は相補的なものなので、この社会においては盗みに対する罪の意識は少しずつ薄れていくだろう。所有の概念のない部族社会では盗みという概念もない。すべてが万人に共有された社会では盗みという罪が発生しようがない。盗みが「あたりまえ」になるということは、所有という概念が「あたりまえ」でなくなっていくことを意味する。だから最終的に罪の意識は霧散する。罪悪感というのは人が思っているほど根拠のあるものではないのだ。たとえば、DVの被害者がパートナーから離れられない理由は、被害者自身の内側にある罪の意識によるところが大きいものだ。DV加害者は「人を思い通りに動かすのは罪の意識を植え付けるのが最も効率的・効果的だ」ということを熟知しており(機序や理屈は理解していないことも多いが)、具体的な命令を発することなく被害者の心と体を支配する。だからDV被害者は精神的・肉体的な暴力に耐えながらこう考える。「相手は悪くない。悪いのは自分だ。こんなことになっているのは全部自分のせいなのだ」と。当然のことながら、この自責の念、罪の意識は、誤謬以外の何物でもない。だから罪悪感を覚えたとき、「悪いのは自分だ」と思ったときは、その感情を捕まえて、メタ視点から「本当にそうか?」と問わなければならない。

上に引用した会話のように、現代の推し[idol]主義者たちはどこか社会に対して後ろめたさを感じている。大企業に勤めるエリートが仕事を辞めないのとまったく同じ理屈で、えりぴよたちもまたフリーター[part-time worker]という生き方を選んでいるだけのことでしかなく、それぞれにそれぞれの生存戦略をとっているだけなのに、推し[idol]主義者たちはここに後ろめたさを感じてしまう。後ろめたさとはつまり、罪悪感のことだ。だからこれを捕まえて、メタ視点から審議する必要がある。さあ、いよいよラスボス「内なる価値観」の正体が見えてきた。そしてこの敵を倒す方法は、正体を見破ること、それだけだ。それだけなのだが、そこへ至るにはメタ視点のメタ視点の……とひたすら自己の認識の枠組みを遡及する必要がある。一度たどりついてしまえば簡単なのだが、初回の道のりはガイドが必要だろう。やはりこういうときは攻略本に頼るべきだ。以下は僕が使った攻略本からの引用である。「少年たち/野郎ども」は「推し[idol]主義者」に、「裏/反抗/反学校の文化」は「推し[idol]文化」と読み替えてかまわない。

なるほど、ひとが働かなければ世の中は成り立たない。けれども、ひとの働きを組織だてる方法はいろいろあるはずなのだ。少年たちの洞察は、ただ労働の必然性を言いたてる水準をこえて、この社会が労働を組織する現実のありかたに向かってはいるのだが、その肝腎のところは常識に埋もれてしまう。反学校の文化の〈洞察力〉は、その一面性や限界をぬぐい切れないで化石化する。常識の作用が、現存するものとは別のより平等で合理的な生産組織への探索を阻害しているのである。
反学校文化の生活リズムにこめられた、整然たる連続という時間観念にたいする破壊力についても、同様のことがいえる。それが元来、ラディカルな変革への可能性を秘め、「定められた時間の流れに従って」という専制支配をすりぬけもするのだが、しかし結局は、無気力な惰性へと収束させられ、いっそう根ぶかい自然主義的な時間の虜になってしまう。少年たちの時間は、産業社会の人工的な時間と異なりはするものの、革命的な時間創造へと結びつきはしない。ブルジョア的な時間の絶対性が少年たちの文化の具体相において疑われるのは、別の可能性に向けて相対化されるからではなく、変わることなく無気力にただよう自然の時間に少年たちが身をゆだねるからだ。ブルジョア的な時間に背を向けて、もっと絶対的な時間観念に行き着くのである。ブルジョア的な時間にたいする〈部分的な洞察〉は、ここでも他の多くの〈洞察〉と同様に、どちらかといえば出来合いの「自然」に回帰してしまい、未来の新秩序を投影する力をもてないでいる。そこにあるのは歴史の否定であって、歴史をわがものにしようとする積極性ではない。歴史的現実を相対化するとっかかりだけが宙に浮いているのである。
ポール・ウィリス「ハマータウンの野郎ども」 p.378

裏の[インフォーマル]文化としての当面の有効性、そして制度に敵対する個々の主張の真実性、まさにこれらの特徴が、もっと大きな社会的条件に立ち向かうとき、階級分化の最大の弱点と化してしまう。この社会にたいする反抗の表現としてのインフォーマルな領域にたてこもるということは、支配的な規則[ルール]の網にかからない例外としてみずからを留保するということである。それも、自分たちだけが例外だと思いこむ。ほかにもありうる例外者を糾合すれば支配的な規則[ルール]をくつがえせるかもしれないことには思い及ばない。つまり、みずからを縛る内なる「ルール」に無自覚なのだ。そういう反抗の文化のありかたを現実に規定しているこの社会の仕組み、そこに分析の言葉が及ぶことはない。あるのは沈黙である。イデオロギーが大手を振ってまかり通るのは、文化の側のこの沈黙ゆえである。その正邪にかかわりなく、それにたいする沈黙の反抗があろうがなかろうが、イデオロギーこそが声になる言葉をもち、そういうものとして「支配的な規則[ルール]」でありつづける。そして文化の弱点にとり入って、ついにそれは、文化の内なる対話者になってしまう。イデオロギーの強靭さはその内容の正否にかかわりなく、それが公共の言葉としての晴れがましい形式性と表現力を持ち合わせていることにあるのだ。公共社会のコンセンサスを背景に君臨するイデオロギーをむこうにまわして、対抗文化の側にはそれと拮抗しうる有効な表現手段がなにもないのである。
〈野郎ども〉の反学校文化を例にとれば、体制への順応を拒む反抗的な観点と、因襲的ともいえるほどの道徳観とのあいだに、実に大きな内部分裂が見てとれる。この自己矛盾はいつも表面化しているとはかぎらない。しかし、顕在しようと潜在しようと、この自己矛盾が、そうでなくても不十分な洞察をなおさらに制約し、その本来向かうべき対象を誤らせてしまうのである。
もちろん、この内部矛盾をかかえこむやりかたには個人差がある。〈野郎ども〉のなかでも、感情の制しかたや判断のありようはひとさまざまだ。だが、彼らが共有する文化それ自体は、ぬぐいがたい両義性にひきさかれている。少年たちの行動や選択の背後には、確かにある種の論理、つまり順応を拒否し、本質論議を避ける経験主義的な論理が存在している。しかしその論理を、少年たちはみずから例外者の論理であると考えてしまう。他の何びとにも通用する、より一般的な論理からは例外であると、考えてしまいがちなのだ。「ほんとうの現実はこうだ」という肌身で学んだ知識の勢いで当面は社会一般の論理を退けることができるかもしれないが、けっしてそれを永続的に打ち負かしたわけではない。少年たちの内なる声は、「おまえにはこれが正しい」とささやきながらも、そのあとですぐに、「世間一般からみれば間違っているかもしれないけれど」と付け加える。つまり、インフォーマルなものに導かれ、またそこによりどころを得ながら〈野郎ども〉は現実に行動を選ぶのだが、究極においてフォーマルなものの大枠にとらえられている。フォーマルな権威が個々の具体的な場面であからさまに拒絶されることはあっても、優劣を格づけるフォーマルなものの力がたち切られることはない。反抗や異端は、こうして、つねに支配的な規則[ルール]からの例外の位置にとどまらざるをえないのである。
(中略)
反抗の文化がそれ自身の論理でみずからを正当化できるかどうか、そこが問われているのである。個々の具体的な行動にあらわれるかぎりでの「合理性」をもって、反抗の文化は、ときにイデオロギーを透視し、転倒させ、そうしないまでもその価値を限定することができよう。だが、支配イデオロギーはいぜんとして詰問を発する側に居坐りつづける。そして、守勢ぎみの弁解を余儀なくされるその対話の形式それ自体が、反抗の文化を政治的に去勢してしまうのである。
(中略)
「実際、正当化しなくちゃいけないんだ。これでいいんだって思えるようにしなくちゃ。ちゃんと理由があるんだってことさ。それは、おれが自分のためにする正当化でさ、警察に行って通用するようなもんじゃないよ。おまわりにならさ、『こんなことをやる気はなかったんです』とか何とか言って泣いてみせたり、とにかく必死で言い逃れようとするね。(中略)まあ、とにかく、自分のことを正当化する理由がどうしてもいるんだ。この世かあの世かわかんないけどさ、いつか引っぱりだされて、理由を答えろって責められるような気がするんだ。自分のしたことにちゃんとした申し開きをしてみろ、いつなんどきそう言われるかもしれないじゃないか」
(中略)
「結局さ、世間のやつらのおしゃべりにおつき合いする理屈がいるってことだな。『ああ、それはね、実はこういうわけなんです、別に悪意でやったんじゃないんですよ』とか、なんとかさ」
(中略)
きわめて排他的に「われら」に固執する集団や個人でさえも、いくぶんかの「やつら」を内に同居させている。こうして、「われら」はしかるべくみずからを欺くことになる。イデオロギーは「われら」の内なる「やつら」である。それは招き入れられたのだ。「われら」の文化が — インフォーマルな領域に立てこもり、そこでこそしたたかではあっても、それゆえに政治的な実践への展望を欠く「われら」の文化そのものが、イデオロギーを招き入れたのである。反抗の文化としてのしたたかさそのものが、イデオロギーとの同居を許しているのだ。
— pp.388–396

反抗も、言い訳も、自虐(クズだなー!)も、すべて自分たちが例外者であることを前提している。反抗や言い訳や自虐は、世間の論理を公式の論理であると追認することであり、その行為自体が自分たちを例外者に、敗北者にしてしまう。反逆はいつもシステムの内側にある。むしろ反逆はシステムに必須の要素だ。それこそがシステムを強化するのだ。ならば何もしない方がいいのだろうか? いやそれでは何も変わらないじゃないか。反抗や言い訳や自虐は、何かを変えたいという意思、何かがおかしいという違和のあらわれである。その表出こそが現状を維持してしまう、というこのねじれた構造をどうすればいいのか? 実のところ、ここにたどりついた時点で攻略はほぼ終わっている。以下は「内なる価値観」あらため「イデオロギー」という名のラスボスを僕が倒したときの描写である。

ああそうか、あまりにもあたりまえすぎて、いままでまったく気づかなかった。これこそがイデオロギーの正体なのだ。体制に反発する自分をクズだと定義付けする価値観、この「常識」というやつこそが、イデオロギーの正体なのだ。これによって労働者は《自発的な隷従をしいられている》のだ(なんとも矛盾した言葉ではあるが)。そしてこれこそがかつて世界を二分した根本的な原因なのだ。僕はずっとこれと戦っていたのだ。そうして自分の中に我が物顔で鎮座していた敵の姿を認識した次の瞬間、それはただのハリボテと化し、あっけなく倒壊した。
イデオロギーを打ち倒してみると、いままで見えていなかったものが見えてくる。子供のころに見た父の同僚の姿、「労働組合を作ろう」と熱心に父を説き伏せていたこと、デリーのメインバザールで見たストライキ、レストランから追い出されたこと、軒並みシャッターが閉められた閑散とした街の光景に驚いたけど、あんなの、あたりまえの光景なのだ。驚いている僕のほうがものをよくわかっていなかったのだ。人は必ず権力におぼれる。それこそ気を抜けば心の内奥にまで侵入してくる。従順な労働者ばかりでは労働環境は必ず悪くなっていく。それが人間社会の自然な流れだからだ。だから労働組合を作り、経営陣が暴走し始めたらそれを抑制しなければならないのだ。僕にもようやくわかってきた。
(中略)
いままで出会った人たちのことを思い出す。「俺こそがものをわかっている」という態度で他人を見下していた父、ホームレスをしていたときに出会ったおっちゃんの「ワシは警察やヤクザより上やから」というセリフ、施設にいた虚言癖のひどいおっちゃん、他にもかぞえきれないほど、虚栄心の塊のような人たちに出会った。彼らもまた「優越意識」に突き動かされていたのだ。誰にも見下されたくないという反発心から、価値観を反転させ、無理やりにでも他人を踏みつける。誰にもバカにされないために、「俺は世界のすべてを知っている」というフリをする。あるいは本当にそう思いこんでいる。だから新しい知識を吸収できず、未知の世界へ踏み出せず、自分たちが何に苦しんでいるのか、その源泉に至ることができず、空虚さだけが支配する未来へと至ってしまう。そして空虚さから逃れるために、さらに人を踏みつける。そうやって互いが互いを踏みつけあい、社会という鏡の間で増幅された優越意識こそが、イデオロギーを形作るのだ。社会全体に蔓延する見えない抑圧を形成するのだ。
「ハッピーエンドは欲しくない」 第4章

イデオロギーとは自分で選択するものではない。何かを選択しようとする基準それ自体がイデオロギーである。これを認識することはとても難しい。それは、人が何かを認識しようとするプロセス「それ自体」を認識しようとする試みだからだ。鏡に映った自分は自分の虚像であって自分の実体ではない。人は誰も自分の眼球を自分の眼球で直接見ることはできない。生まれたときから赤の色眼鏡をずっとかけている人は、世界を「赤い」とは思わない。むしろ赤色をぼんやりとしか認識できず、赤以外の色だけに気を取られることだろう。イデオロギーとは、この「赤」のことだ。どうすればこの色眼鏡を外せるのだろうか? ショートカットは存在しない。知識と経験を積み重ね、帰納と演繹を繰り返すことによってのみ、これは達成できる……と断言してしまうと、以下のような批判が飛んできそうだ。そうして色眼鏡を外しても裸眼にはなれない。別の色眼鏡に変わるだけだ。人に自由意志などない。クオリアそれ自体を捉えることはできない。君が見ている「赤」と私が見ている「赤」が同じ色だとどうやって証明するのだ。郵便ポストの色と同じ? 両者が違う色を見ていてもその答えは「同じ」だろう。それが同じクオリアであることの証明にはならない。これは思考実験ではなく実際に色弱者と非色弱者の間で日常的に起こっていることだ。どれだけ色眼鏡を外し続けても「純粋な視界」なるものは決してあらわれない。それは生まれたての赤子だけが持ちうるものであって、言語を習得し、概念を習得したあとの人間は、必ずイデオロギーに汚染されている。イデオロギーとはそれらにこそ含まれているものだからだ。そもそも、このような論述を行うためにこそ、まさにイデオロギーは必要ではないか、と。この批判は正鵠を射ているが、しかしこれによって「色眼鏡を外すことは無意味だ」とは止揚されないだろう。序文で述べたように、人は昔からずっと各時代の「あたりまえ=色眼鏡」を解体し、歴史を前に進めてきた。人権等の概念を発明し、フィクションをリアルに変えることで世界から悲惨を減じてきた。たとえこれらが絶対的なものではなくても、人類の歴史がそうやって進められてきたことはたしかな事実だ。その事実が持つ重みと比べれば、上の批判はあまりにも軽すぎる。この重みと釣り合う批判ができる個人などこの世に存在しないのではなかろうか。

ともあれ、上のような攻略法によって現代の「あたりまえ」は解体できる。最初に言ったように、ラスボスは強力だが、その正体を暴いた瞬間に倒れるのだ。この地点に至ってみれば、現在の推し[idol]主義者たちが感じる後ろめたさの正体がわかるはずだ。これは、DVの加害者が被害者に植え付ける罪悪感と同じものなのだ。そこに根拠などまったくないのだが、イデオロギーを打ち倒していない人はそれをメタ視点で捉えられず、自身を咎人のように思ってしまう。このことが最も顕著に出るのが「辞めさせてくれない」という言葉である。ブラック企業からの転職を考えている人がよく使う言葉だが、このセリフはまったく意味不明である。経済的な事情等で「辞められない」というのは理解できるが、「辞めさせてくれない」というのはまったく意味がわからない。これは一言「辞めます」と企業側に通告するだけで終わる話なのだ。自分の退職後に業務がまわらない……などという事情をただの従業員が考慮する必要はない。そういった問題を解決する能力があるがゆえに経営者・管理職は高い給与を受け取っているのだから、その職務をまっとうしてもらえばいいだけである。このような意味不明なセリフの裏側には、イデオロギーの働き、根拠なき罪悪感がある。この罪悪感こそが自由市場の見えざる手をデバフしているのだ。新自由主義はこのような状況を前提していなかった。職場の環境が悪ければ労働者はさっさと見切りをつけて他の職場に移り、見えざる手の働きによってブラック企業は淘汰されるはずであった。しかしこの罪悪感が邪魔をする。新自由主義を歪めているのは、この根拠なき罪悪感なのだ。だから新自由主義者こそがこの罪悪感と戦わなければならなかったのだが、自己責任の原理がそれを許さなかった。そうして新自由主義は機能不全に陥っていったのである。

ブラック企業からの逃走や転職時の交渉に必要な自己肯定感を増大させるには、イデオロギーを打倒し、根拠なき罪悪感を消し去り、反抗でも言い訳でも自虐でもない「正当な」言葉を持たなければならない。私はひとりの人格を持った人間である。ゆえに、私は私の権利を当然のものとして主張する。あなた方は私に対して敬意を持たなければならない。私があなた方に敬意を持つのと同じように、と。そうすることでようやく自由市場の見えざる手が正常に機能するのだから、これは現在の社会システムのルールに完全に合致した合法的で道徳的な行為である。罪悪感を覚える必要など微塵もない。胸を張っていい。あなたは正しい。社会システムがそれを保証している……と、ここまで言っても罪の意識から逃れられない人がいることは容易に想像できる。それは、イデオロギーを打倒したところで、その後の思考体系をどう構築すればいいかがわからないからだろう。いくら合法的で道徳的であっても、現代では社会の方が歪んでいるのだから、それは違法で非道徳だと「みなされる」。大多数の人がそう「みなす」のであれば、やっぱりそれは違法で非道徳ということになってしまうじゃないか。そんなことして社会からはじき出されたらどうするんだよ、と。残念ながら僕は万人が使える指針は持っていないが、僕個人の指針でよければ紹介しよう。簡潔に言えば、「命の投棄」である。

労働とは緩慢なる死のことである。労働はふつうは肉体的疲労の意味で理解されているが、それとは別の意味で理解しなくてはならない。労働は、一種の死のようなものとして、「生命の実現」と対立するのではない。そのような考えは、観念論である。《緩慢な死が暴力的な死〔非業の死〕と対立するように》、労働は死と対立する。これが象徴的現実である。労働は、延期された死であるから、供犠の直接的死と対立する。「労働(あるいは文化)は生の反対物である」といった類の抹香くさい「革命的な」見方にたいして、つぎのように主張しなくてはならない — 労働にたいする唯一の選択肢は、自由な労働とか非労働といったものではなく、まさに供犠なのだ、と。
右のような事情はすべて、奴隷の系譜をたどれば明白になる。第一の段階では、戦争捕虜はただちに殺される(それが捕虜に与えられる名誉なのである)。つぎの段階では、捕虜は「生かして」おかれ、戦果と威信財の資格で《保存される》(=servus)。つまり捕虜は奴隷になり、贅沢な召使の部類に入る。かなり後になってようやく、捕虜は奴隷的苦役にたずさわる。しかしながら、これはまだ「労働者」ではない。なぜなら労働は、農奴あるいは《解放》奴隷の段階にはじめて現われるからである。奴隷は殺害の担保から解放されるのだが、何のために解放されるのかといえば、まさに労働のためにである。
したがって、労働はいたるところで延期された死が染み込んでいる。労働は延期された死《である》。緩慢であれ暴力的であれ、直接的であれ延期されたのであれ、死の律動が決定的である。この律動が二つの組織形態 — 経済と供儀 — を根本的に分かつ。われわれは否応なく前者(経済)のなかで生きているが、経済はたえず死の「《延期》」のなかに根をおろしつづけてきた。
筋書きは一切変化しなかった。労働するひとは依然として《殺されなかった》ひと、殺害という名誉が与えられなかったひとである。そして労働とは何よりもまず生きることにしか値しないと判定されたみじめさの徴[しるし]なのである。資本は労働者を死ぬほどに搾取するだって? とんでもない。逆説的なことだが、資本が労働者に加える最悪のことは、労働者を死ねないようにすることだ。労働者の死を延期することで、資本は労働者を奴隷にし、労働のなかでの生の際限のないみじめさに労働者をしばりつけるのである。
このような象徴的関連においては、労働や搾取の中身はどうでもよい。主人の権力は、いつでもまずは、死の未決状態から生ずる。だから権力はふつうひとが想像するのとは逆に、殺害する権力では全然なく、まさにその逆で、自分の生命をおとす権力なのである。奴隷は主人の生命を救う権利をもたない。主人は他人の死を没収し、自分自身の生命を危険にさらす権利をもっている。この権利は奴隷にはない。奴隷は、永遠に、罪の償いもできずに生命にしばりつけられる。
主人は、奴隷から死を奪うことで、奴隷を象徴財の流通からひきはなす。主人が奴隷に加える暴力とはそういうことであって、この暴力が他人を労働力にしばりつけるのである。それこそが権力の秘密なのである(ヘーゲルは主人と奴隷の弁証法を論じて、延期された死が奴隷に及ぼす脅威から主人の支配をひきだしている)。労働、生産、搾取はこの権力構造が形をかえたものである。権力の構造とは死の構造である。
このことは権力を廃棄するという革命主義者の遠近法をまったく変えてしまう。権力が《延期された》死であるとすれば、この死の《宙づり》が取り除けないかぎりは、権力は取り除けないだろう。そして権力が、返されるのを期待せずに与える行為に根づくのであれば(これがいたるところでつねに権力の定義である)、生命を一方的に与えるという、主人のもつ権力が廃棄されるのは、この生命が《延期されざる死という形で》主人に返される場合だけである。これ以外の選択肢はない。生命を守りながら権力を廃棄するなどは、できない相談だ。なぜならそんなことでは、与えられたもののお返しがなかろうからである。この生命をひき渡すこと、直接的な死によって延期された死に逆ねじをくらわすことだけが、根源的な返答であり、それこそが権力を廃棄する唯一の可能性である。すべての革命的戦略は、奴隷が自分自身の死を延期することからしか出発できない。死の回避や延期は、主人が権力を安泰にするために利用されてしまうのだ。殺されないで、権力の与える死の猶予のなかで生きつづけ、お情けの生命を負ってこの生命を免れることがまったくできない状態、そして事実上長期信用債権を少しずつ清算していく義務を負って、労働という緩慢なる死のなかにとらえられている状態、しかもこの緩慢なる死がみじめな状態や権力の運命に何らの変化ももたらさないといった状態、これらすべてを拒否しなくてはならない。暴力的な死はすべてを変える。緩慢な死は何も変えない。なぜなら、象徴交換にはリズムがあり、それに必要な拍子があるからである。物は同じ運動のなかで、同じリズムによって返却されねばならない。さもなくば互酬性はなくなり、物はまったく返されないことになる。交換時期を《ずらして》、死のねじれや直接的な逆ねじれにかえて、連続性や労働の死ぬほど退屈な線状性を置き換えること、これが権力システムの戦略である。だから奴隷(労働者)が彼を殺す労働をつづけながら、主人や資本に自分の生命をごく少量ずつちびちびと返していったところで、何の役にも立ちはしない。なぜなら、このような少量ずつの「供儀」は、決して供儀ではないからである。そんなやり方は死の《延期》(これが肝心なのだ)に触れもせず、構造が依然として同じままの過程を徐々に拡げるだけである。
ジャン・ボードリヤール「象徴交換と死」 pp.95–98

僕はこれまで何度もホームレスになっているが、これはまさにボードヤールが語る「直接的な死によって延期された死に逆ねじをくらわす」行為である。僕は自分の命をなんとも思っていない。未来がどうなろうがしったこっちゃない。野垂れ死のうがどうなろうがどうでもいい。むしろそれこそが僕の求める死の形である。だから、こちらがいくら敬意を持って接しても敬意のない態度を返すナメたやつに対して、僕はいつでも中指を立てることができる。いつでも躊躇なく関係を断てるのだから、不公正[unfair]な交換関係をしいてくる企業に対して、卑屈になる必要がいっさいない。その結果として1年くらいホームレスの施設に入っていたりするのだが、逆にエリート層が集まる職場で1年くらい働いていたりもするし、そのあとまた1年くらい引きこもってひたすらゲームやアニメに興じたりするし、上のような教養書に没頭したりもする。このような生き方を自由だと定義したがる人は多いが、僕は自分を自由だと思ったことは一度もない。なぜなら常に自分の心臓を握られているからだ。いついかなるときも己の命を賭け金としてテーブルの上に置きっぱなしにしているからこそ、このような生き方が許されているにすぎない。それは本当に自由などと呼べるものだろうか? 運よくまだ賭けには負けていないが、明日にはどうなるかわかったもんじゃない。現在は自分の命を賭け金としなければこのような暮らし方はできない。誰もができることではない。僕のように自分の命の価値を低く見積もっている人間にしかできないことだろう。しかし近い将来には、命をベットする必要なく、誰もがこのような暮らし方を選べるのではないだろうか。そのためには、一定数の人間がイデオロギーを打ち倒し、公式のイデオロギーを交代させる必要がある。「あたりまえ」を入れ替える必要がある。そうしてはじめてラストステージはクリアされ、このゲームはエンディングを迎えることができる。

往々にして資本主義社会は階級支配の巧妙さにおいて完成の域に達しているかのように考えられているけれども、事実はそれとはほど遠い。自由と民主主義を合言葉とする現代資本制社会は、実のところ、絶え間ない闘争の社会である。労働階級の文化のなかに既存の社会の再生産に好都合な要素があるようにみえても、それはそのまま手強い異和を伏在させた要素にほかならないゆえに、資本主義はけっして確固不動の安全を保証されてはいない。それは千年王国ではありえないのである。表面的な安定の裏側に、不安定化の危険を承知の上で、なにを結果するかも知れない自由の余地を広げながら支配関係への同意をわずかながらにとりつけてゆくという動的な過程が脈うっている。そうした不確実性こそが資本制社会の深層における事実なのであり、不断に新たな均衡に達しながら矛盾はいよいよ深まりつづける。さまざまなモメントが多面的に抗争し合いながら再生産される文化の領域が死活の重要性を帯びてくるのは、他のどの社会体制にもまして、この資本制社会である。資本制社会の延命の条件がそこにあると同時に、その命脈が尽きる条件もまたそこにあるのだ。
資本制社会における自由は、掛け値なしの自由へと全面展開する勢いを秘めている。そして、資本制社会は、その再生産の本質的要件を満たすために、ある賭けに出る。つまりこの自由が、個々人がみずからを見限る自由として費消されるほうに敢えて賭けるのである。それが賭けであるというのは、支配階級といえども、下からそれに応じる動きがないかぎり、自由という名のくぐり戸を上から一方的に閉じることはできないからだ。そして、自由が、その字義通りに破壊的、反抗的、自律的でもありうる自由として用いられなかったとしても、その責めを資本制社会に負わせることはできない。資本制社会は不確実性を引き受けながらみずから賭けに出ているのであり、別の賭けに出ることを何びとにも禁じてはいないからである。
ポール・ウィリス「ハマータウンの野郎ども」 p.409

とりあえずは構造の規定力を十分に承知し、それと文化的な形成物との相互依存性を忘れないことが必要であろう。だがそのうえで、右の問に答えようとする努力から出てくるものは、また総じてこの本の結論として出てくる要請は、理論と実践との一体的な性格についての再認識である。文化的なものの位相を確認し理解するということは、それを明晰な自意識の領域に、したがって政治的実践の領域により接近させる。つまりそれ自体ひとつの行為なのである。文化的なものが物質的なものの再生産の過程に組みこまれて存在するなら、文化的なものを目的意識的に物質的な力へと鍛えあげる可能性もあるはずなのだ。文化的なものをそのように政治的な力にすることこそ、長期的な構造変革の前提条件である。およそ教育という営みのなかでなにほどか有効な働きかけを考えようとするなら、私たちはそれこそ文化の領域にわけ入らねばならず、とりわけイデオロギー的なものの作用を念頭におきながらそうしなければならない。ふつうの民衆のありように起源をもつ要素に注目しながら文化的なものが再生産される過程を理解するに至るならば、対抗文化の内なる弱点はすでに乗り越えられたも同然であり、インフォーマルなものにたいするフォーマルなものの支配力を揺るがせつつ、民衆は自己改革をとげはじめたと言うことができる。これはまだ希望の千年王国の到来ではないけれども、確かにもうひとつの月曜日の朝にはなりうるであろう。月曜日の朝がくりかえしくりかえしめぐりくる同じ月曜日の朝でありつづける必然性はまったくないのである。
— p.446

因果の彼岸[nirvana]

人間の認識というスポットライトのなかに現われてくるものは、人間にとってどれほど大事なものであっても、全体から見れば、ないも同然なほどわずかしかありません。このジャングルのどこかに拓かれた明るみのそとに現われるものがあるとしても、わたしたちには知りようがありません。わたしたちは認識可能なものに制限されています。そして、わたしたちが何らかの対象について何ごとかを認識しているとすれば、わたしたちは当の対象の何らかの性質を認識していることになります。こうして認識されている性質によって、その対象は、ほかのさまざまな対象と自身とに違いをつけ、ほかのさまざまな対象から自身を際立たせているわけです。ちなみに、このような事態は「存在」という言葉の歴史にも潜んでいます。「存在[エクシステンツ]〔Existenz〕」という言葉は、ラテン語の動詞「エクシステレ〔existere〕」に由来しているからです(このラテン語の動詞は、さらに古典ギリシア語に遡ります)。「エクシステレ」とは、「起こる」、「現われ出る」という意味です。文字通りには「立ち出る」、「突き出る」、「歩み出る」などと翻訳できます〔ex-「外へ」+sistere「立つ」〕。これに即して言えば、存在するものは突き出ている。つまり、自らのさまざまな性質によって、ほかのさまざまな対象から自身を際立たせているわけです。
マルクス・ガブリエル「なぜ世界は存在しないのか」 II

余談だが、本稿は機械翻訳で読むであろう何人かの友人のために、完全とはいかないまでも機械的な翻訳に耐えうるよう気を配って日本語を書いている。「これ大丈夫かな?」と思う表現は適宜チェックしているのだが、そこで気づいたことがある。どうも機械翻訳エンジンはまだ推し[idol]という概念を習得していないようなのだ。この言葉はカタカナ書きの「アイドル」とも英語の “idol” とも違う概念であるということは承知しているが、いちばん近い概念はやはり “idol” なので、機械翻訳のために “Oshi[idol]” と表記している。こうしないと「推し」は “push” と訳されてしまうのだ。とはいえ、 “push” も「推し[idol]」という言葉の持つニュアンスをよくあらわしている。それは、特定の対象を他より「押し出す」こと。輪郭のないぼんやりとした風景の中で、対象に輪郭を与え、際立たせること。世界に対象を「存在」させることにほかならない。推し[idol]主義者たちは、家族や仕事のことを忘れる時間はあっても、推し[idol]のことは決して忘れない。推し[idol]は24時間ずっと頭の中に「存在」し続けている。推し[idol]は世界の中心だ。もはや推し[idol]こそが自分の「存在」を支える基盤なのだ。というのが推し[idol]主義の考え方だが、それを自身の内側にとどめる人と、外側に向けて敷衍する人がいる。この違いは「推しが武道館いってくれたら死ぬ」でも描写されている。

© 平尾アウリ・徳間書店

くまさ「僕だって生まれ変わったら権力者になって、れおをメジャーデビューさせてあげたいです!」
えり「それな!」
基「え? なんでふたりとも来世に期待なんですか? ぼくは現世で空音ちゃんを幸せにしたいですけど」
くまさ「幸せに……」
基「ぼくが養うから空音ちゃんにはうちでおいしいごはん作って待っていてもらいたいんです! それがぼくの夢です!」
くまさ「そうだ……基さんはリア恋勢なんですよ!」
基「え? 普通じゃないんですか? 違うんですか?」
くまさ「僕はねぇ……僕なんかのことを相手してくれるのは、れおがアイドルって仕事してるからこそだと思うから……。僕は誰の一番にもなれないってわかってますから、僕が一番れおのことを好きでいたいんです……」
えり「わたしはアイドルがんばってる舞菜が好きだからー! だからわたしのものにっていうか、みんなのものになってほしい。みんなが舞菜のかわいさに気づいてくれたらいいと思ってる」
基「そんな考えの人いるんですか……信じられません……」
えり「当然その中でもわたしが一番舞菜のことを好きだって知ってる」
くまさ「あー気持ちわかりますわかります」
えり「舞菜を地下のはじっこに置いとくなんてどうかしてるんだよ、この世界と運営は」
平尾アウリ「推しが武道館いってくれたら死ぬ」 原作1巻5話(アニメ1話・3話)

2021年現在における「推す」という言葉が指すのは、えりぴよとくまさの方であるように思われる。これはただの言葉の定義の話で、どちらが正しい/間違っている、どちらが良い/悪いみたいな価値観の話ではない。ガチ恋勢である基も、彼なりの「推し方」をしている。しかし「推す」という言葉が「押し出す」というニュアンスを含んでいる以上、対象を外側に「押し出し」ているえりぴよたちの方が、より正確に言葉それ自体のニュアンスに合致しているはずだ。推し[idol]文化が普及した理由はおそらくここにある。「推す」という行為それ自体が外側に広がっていく性質を持っているのだ。誰かを「推し」たとき、その対象と同時に、「推す」という行為、考え方自体も世界に広まっていく。「推す」ことは「世界に広がる」ことを意味する。アイドルにとって売れることは善い[good]ことだ。アイドル文化とはそもそもそういうものだ。ひとりでも多くファンを増やし、信者[followers]を増やし、一大信仰​圏を形成するのだ。信仰は人を救う。推し[idol]主義者たちは推し[idol]の存在によって今日を生きていくことができる。それは世界にとって善い[good]ことのはずだ。「しかし……」と考える人がいる。「しかし本当にそうか? 本当にそんな牧歌的な見方のみで世界をシンプルに捉えていていいのか?」という疑問符が、アイドル文化に突きつけられ始めている。ここでも問題になっているのは新自由主義社会における無限競争だ。

さて、なんで世界で人気の韓国アイドル(以下韓ドル)を称賛すべきではないのかというと、端的にいうとアイドル本人に多大な負荷をかけることで成り立っている人気だからである。
韓ドルというとどんなイメージがあるだろうか。
特にファンでない層からすると、欧米の流行を意識した楽曲、高度なパフォーマンス、最先端のファッションあたりだろうか。これらのイメージは間違いではない。だが単に実力のあるアーティストが見たいなら既にいくらでもいるわけで、なぜその中から韓ドルが受けたのかを考えると、一番大きなヒット要因は「圧倒的な露出量の多さからくる単純接触効果による親しみ」ではないかと思う。
興味のなかった商品がCMを見たりツイッターで絶賛されてるのを見たりしているうちになんとなく欲しくなったことはないだろうか。あれと同じで、くりかえし見るものほど人は好意を抱きやすい。
韓ドルはこの“繰り返し見る”きっかけとなるコンテンツの供給が他のアーティストに比べてめちゃくちゃに多いのだ。
(中略)
とまあこんな具合にとにかく供給量が凄いのだ。
それも“無料で” “海外から” “簡単に”アクセスできるコンテンツばかりだ。
いいことづくめのように思えるが、重大な問題が隠れている。供給量が多いということはその分アイドルは四六時中働いているということだ。実際売れっ子は睡眠時間が2時間3時間というのはザラのようである。
大量の供給に慣れたファンは贅沢になるため、売れたからといって供給量を落とすことはできない。代わりになるグループはいくらでもいるからだ。スピードを落とさずに走り続けなければならない。
どうしてそんな無茶ができるかというと、韓ドルには明確な「ゴール」があるからだろう。
7年契約と兵役(男性限定)だ。
(中略)
つまり韓ドルはこのゴールまでにいかに人気と知名度を確立するかが肝要なのだ。だからこそ多少の無理をしても頑張ることができるのだろう。
特殊な環境下ゆえに成り立っている無茶な売り方なのだ。
実際韓ドルは体調不良になったりメンタル面での調子を崩したりする子がとても多い。
ビジネスとしては成功しているのかもしれないが、手放しで称賛できるやり方ではない。
韓国アイドルをのんきに称賛すべきではない — はてな匿名ダイアリー

アイドルにとって売れることは善い[good]ことだ。そのためには苦難に耐えることも必要かもしれない。しかし、当然のことながら、ひとりの人間が耐えられる負荷には、限度がある。新自由主義が極まりつつある韓国では大学受験同様、アイドル業界でもすさまじい競争が繰り広げられている。市場のパイのサイズは決まっているにもかかわらず、そのパイを奪い合うためにアイドルたちの仕事量は増え続け、99.9%、99.99%、99.999……またお決まりの無限競争が猛威を振るい、アイドルたちにかかる負荷は、次第に限界を超えたものになっていく。ここまで本稿を読んだ人ならこう言うかもしれない。「これも公害じゃないか。アイドルたちを公害から守るための規制が必要だ」と。しかし事態はそう単純ではない。公害は公[public]のものなのだから、社会の仕組みによってしか解決できない。そして社会の仕組みを変えるには、社会通念、つまり倫理を変えなければならない。ここで変えなければならない倫理、価値観とはなんだろう? 「売れることは善い[good]ことだ」という価値観だろうか? しかしそれこそがアイドルという仕組みの根本にあるものなのではないか? それがなければそもそもアイドルという仕組みは成立さえしないのではないか? 誰がこの価値観を否定できるのだろう? アイドル本人や事務所は売れることを望むだろう。アイドルオタクたちも推し[idol]が売れることを望むだろう。市場のプレイヤーは誰もこの価値観を否定できそうにない。それならこの公害を規制するための倫理の変化も生まれない。自由民主主義の社会では民意がともなわない限り政府は口を挟めない。誰にも何もどうすることもできない。詰んでいる。こうして、苦労の末に「イデオロギー」という名のラスボスを倒しても、アイドルオタクたちの前には隠しボスが立ちはだかる。これはラスボスが可愛く見えてくるほどの強敵だ。システム的に攻略不可能に設定されているのではないかとさえ思える。

さらに最悪なことに、アイドルオタクたちは「にげる[flee]」コマンドを封じられている。他の業界とはあきらかに事情が異なっているのだ。Amazonの配送センターの労働環境が劣悪であるなら、消費者は不買という形で意思表示をすることができる。さらに、それらは目の前で発生していることではないのだから、消費者は見て見ぬフリもできる。カカオの生産地で児童労働が常態化していることを知っていても、一個人にどうこうできる問題ではないと蓋をすることができる。不経済を外部化することができる。この、不買運動と不経済の外部化、どちらもアイドルオタクには許されていない。アイドルオタクにとっての不買運動とは、推し[idol]を「推す」のをやめるということに等しい。それは信仰に反する行為だ。不経済の外部化もこの信仰によって不可能となる。なぜならその不経済は、世界の周縁などではなく世界の中心、自分の信仰対象、自分の存在の基盤となっている推し[idol]に向かうからだ。その不経済によって本尊が破壊されようとしているのに、目を背けることなどできようか。そこで目を背けることは、自身の信仰を捨て去ることを意味する。自分の基盤の崩壊を意味する。だから、しかしそれがゆえに、アイドルオタクたちは「いいね!」を押さざるをえない。それこそが無限競争を加速させ、不穏な結果を招くかもしれないことを知っていたとしても、「いいね!」を押さなければその競争に負けてしまう。どちらにせよ推し[idol]を失う不安はいつでもどこまでもつきまとう。だからアイドルオタクたちはリツイートせざるをえない。売れることは善い[good]ことのはずなのだから。それが資本主義社会のルールなのだから。そう自分に言い聞かせながら……。売れるものは善い[good]ものだ。だから市場に残る。売れないものは善くない[bad]ものだ。だから市場から淘汰される。そうして世界は善い[good]もので満たされる。世界は自由市場の働きによってより善く[good]なっていく。これまでずっとそうだった。だからこれからもそれでいいはずだ。アイドルオタクたちは世間の論理には反抗的でも、この資本主義の論理には誰よりも従順である。しかしそのアイドルオタクこそが、その資本主義に対して、誰よりもラディカル(根本的・急進的)に挑戦しなければならない。自らの信仰ゆえに。

上の議論はアイドル業界以外にも敷衍される。隠しボスから逃亡することを許されていないアイドルオタクが特に可視化されやすいだけであって、この隠しボスはあらゆる現代人の前に仁王立ちしている。もはやどこにも逃げ場はない。資本主義社会では売れるものが善い[good]ものだ。誰もが「価値がある」と思うものが本当に価値あるものだ。ただの紙切れに福沢諭吉の肖像画が描かれていても誰もそこに価値を見出さない。それはただのフィクションにすぎない。日本銀行から発行された福沢諭吉公式ブロマイドだからこそ、誰もがそこに1万円分の価値を見出す。だからそのフィクションはリアルになる。そのブロマイドは人気投票券である。どの企業、どの商品を「推す」かは人それぞれだ。そうして多くの投票を集めた企業、多くの人から「推された」商品が本当に価値あるものだ。だからその企業は市場で生き残ることを許可される。日本銀行券とは大衆からの企業に対する生存許可証である。しかしこの一連のフローの中に隠しボスは潜んでいない。なぜなら資本主義社会には独占禁止法という制御装置、アンチチートプログラムが存在するからだ。それが機能する限り、ひとつの企業に人気投票券が集まりすぎることはない。隠しボスはあらわれない。ではなぜ、現代社会に隠しボスがあらわれたのか? 21世紀に入ってから、資本主義社会からインフルエンス社会(influence=影響)へ徐々に移行しているからだ。2021年現在はその過渡期にあり、両者がオーバーラップしているので、資本力がインフルエンス能力と強く相関している。より大きな資本を持つ企業・個人ほど、より大きな影響力を持っている。だから次の事実に気づきにくい。この来たるべきインフルエンス社会には、独占禁止法のような制御装置は存在しないのだ、と。これは’20年代においてとてつもなく重要になってくる問題だろう。いやもうすでに問題になっている。資本主義社会では資本を元手に資本を自己増殖させるチート行為は独占禁止法によって封じられている。しかしインフルエンス社会においてインフルエンス能力を元手にインフルエンス能力を自己増幅させることはチート行為ではないのだ。だから一度インフルエンサーとなった者は、その影響力を用いていくらでも影響力を増していける。インフルエンサーは世界に対する影響力を増していく中で注目を集め、羨望を浴び、その視線こそがインフルエンス能力の価値をリアルなものにする。現代ではこのインフルエンス能力こそがその人の価値である。「経済的価値がその人の価値である」という誤謬が霧散したとしても、この誤謬はしつこく残るだろう。現代ではフォロワー数はそのまま戦闘力を示す。フォロワー数たったの5か、ゴミめ。私のフォロワー数は53万ですがもちろんフルパワーで以下略。現代社会で生き残る戦闘力を得るために多くの人が叫ぶ。フォローを! チャンネル登録を! リツイートした人には抽選でン万円! とにかくバズったもの勝ち。バズったものに価値がある。炎上によってだろうがなんだろうが、とにかくフォロワーを増やせば勝ちなのだ。勝てば官軍だ。官軍の言葉は公式の言葉である。お上の言葉は伏して聞かなければならない。長い時間をかけて法や経済を学んだ政治家の言葉よりも、日常のすべてをスポーツに捧げて国際タイトルを獲得した選手の政治的発言の方が注目される。この政治的発言は一市民として以上のものではないのに、このスポーツ選手にそれを利用する意図があろうとなかろうと、一市民として以上の影響力を持ってしまう。前者の政治家はさぞ無力感を覚えることだろう。だから次のように考える人が出てくるのは必然である。だったらもう大衆ウケする人に大衆ウケする言葉を語ってもらえばいいじゃないか、と。これがポピュリズムの由縁である。さらに、インフルエンス社会ではバックラッシュも非常に危険で重要度の高い問題だ。フォロワー数5の人は自分の戦闘力はあくまで5であり、自分にはたいした影響力がないと考え、見知らぬ誰かに気軽に攻撃を加えてしまう。戦闘力の高い人間は発言に気をつけなければならないが、自分にはそんな義務はないはずだ。こんな小さな棘で死ぬやつがいるわけないじゃないか、と。しかしどれだけ小さな棘であっても、それが百万集まれば人は簡単に死ぬ。百万のミクロの作用がマクロに結果するプロセスを認識できる人間はどこにもいない。だから当人たちは自分が殺人者であることすら気づかず、同じことを続けるだろう。昨日バズった内容さえ誰も覚えていない、リアリティーショーのリアルな死さえもすぐさま忘れ去られてしまうような、超高速回転の現代においてはなおさら。

アイドルの過負荷な仕事量、リアリティーショーのリアルな死、これらはインフルエンス社会に独占禁止法のような制御装置がないことに起因している。前世紀までの社会は情報通信網が発達していなかったから問題にならなかったにすぎない。21世紀に入ってインターネットが普及し、SNSが興隆し、70億の人間が瞬時に70億人とつながれるようになり、世界全体の潜在的なインフルエンス能力の総量は指数関数的に増大した。自らを制御する機構を持たないインフルエンス社会は、すぐさま寡占状態に陥り、その寡占状態を崩そうと誰もが必死になり、狂乱と過熱が延々と続いていく。正気に戻る様子も冷却される様子もまったく見られない。SNSにどっぷりと浸かっている人はここ数年この熱狂を肌で感じていたはずだ。果たしてこのままでいいのだろうかと疑問を感じていたはずだ。なにせ「現実に人が死んでいる」のだから。もう一度言おう。「現実に人が死んでいる」のだ。そのことに対する疑問符が一定数に達すれば倫理が変化し、この公害をどうにかできるような仕組み、インフルエンス社会の制御装置を作ることができるようにも思える。しかしやはりそんな単純な話ではないのだこれは。なぜならこれは倫理の話ではないからだ。価値観の話ではないからだ。インフルエンス社会のありようは善い[good]悪い[evil]といった価値観のもっと手前にあるものだ。

学術誌の影響力を測る指標であるインパクトファクターは、掲載された論文の被引用数から算出される。引用数とはリツイート数のようなものだ。より多く「拡散」した論文、より多く参照された論文の載せられた学術誌はそれだけ影響力があることを意味する。影響力があるということは権威があるということである。権威があるということはそれが正統だとみなされるということだ。学校内カーストであれ、社内政治であれ、国内政治であれ、より影響力を持つ側が正統なのだ。これは資本主義国家であろうと共産主義国家であろうと変わらない。資本主義国家が資本主義国家なのは国民が資本主義を正統だとみなしているからだ。共産主義国家が共産主義国家なのは国民が共産主義を正統だとみなしているからだ。民主国家でも独裁国家でも同じである。つまり、正統であるかどうかはイデオロギーの手前にあるものなのだ。科学、宗教、政治、SNS、世界のありとあらゆる領域でこの図式はあてはまる。影響力のある側が正統である。そして正統な側が生き残る。正統でない側は淘汰される。生き残った子孫が正統後継者だ。生き残らなかった子孫は正統後継者ではない。それはこのように言い換えられる。いまここにあるものは正統だ。いまここにないものは正統ではない。いまここにあるものは影響力があるものだ。影響力があったからいまここにあるのだ。影響力がなかったらいまここにはないはずだ。生命も、非生命も、すべての存在はこの法則に従っていまここに「在る」のだ。これは善い[good]悪い[evil]といった価値観とはまったく関係がない。ただの、そこいらによくある、とてもありふれた、宇宙の法則である。人はこれを、「因果律」と呼ぶ。隠しボスの正体は、この、「因果律」である。アイドルオタクを含めた現代人が立ち向かわなければならないのは、この、とてもありふれた、宇宙の法則なのだ。しかし宇宙の法則を変えることなど人の身には不可能なことだ。やはりこの隠しボスはシステム的に攻略不可能な設定になっている。「影響力のある側が正統である」という法則に疑問を投げかけるにはその問い自体が影響力を持たなければならない。その行動自体が当該の法則に従ったものであり、隠しボスを強化する結果をもたらす。この世に何か言葉を発するということは、それ自体がコピー・拡散されることを前提している。言葉は情報伝達のためにある。世界に影響を及ぼすためにある。致死率の高いウィルスは蔓延しない。宿主が死ねばコピー・拡散の機会を失うからだ。「増やすな」という考えを「増やす」ことは不可能だ。「沈黙せよ」という発言者はまず自分が「沈黙」せねばならない。そして沈黙もまた隠しボスに対する攻撃とはなりえない。発言された言葉だけがこの世に存在する言葉だ。発言されなかった言葉はこの世に存在しない。この世に存在しない言葉は何にも影響を与えない。それが因果律である。このような敵に、どうやって立ち向かえばいいのだろう? 「推しが武道館いってくれたら死ぬ」は、この問いに対して一定の答えを出している。

© 平尾アウリ・徳間書店 / 推し武道製作委員会

舞菜(あっ、えりぴよさんがめいぷるさんを見てる! ど……どの子? どの子目当てで?)
空音「舞菜、どうした……」
(中略)
舞菜「空音ちゃん、この中でステージにいる子のことを一番好きな人ってどれくらいなのかな?」
空音「一番好きだよって言われたら、嬉しいな、そうなんだ、って思うけど、その人のブログに飛んでみたら、わたしのことなんて全然書いてくれてなかったり……。わたしたちは言われた言葉を信じるしかないのにね」
舞菜「……やっぱり、
一番に好きでいてほしいな」
空音「常に一番かわいい舞菜を見せるんだよ。この前よりかわいいな、この前より好きだな、って思ってもらえれば、ずっと舞菜が一番だよ」
[場面切り替え]
えり「ふーん、アイドルっていっぱいいるんだなあ」
くまさ「そうですよ、すごくいっぱいいるんです。でも、そのアイドルの中でも、たったひとりのれおちゃんに出会えたことを、僕は人生の宝に思ってます」
えり(たくさんの他のアイドルを見ても、思い出せるのは舞菜の姿だけだ。こんなにいっぱいいるのに、わたしの世界には舞菜だけだ。
一番とかじゃない。舞菜だけなんだよなあ……)
「推しが武道館いってくれたら死ぬ」 アニメ12話(原作4巻24話、太字強調は引用者による)

ここに至って、推し[idol]主義者は推し[idol]を推すことができなくなる。世界の中心に「存在」していた推し[idol]が無限に広がり続け、世界に遍在するまでになったからだ。もはや世界のどこにも推し[idol]の「存在」しない領域はない。銀河の中心から宇宙の果てまで。過去、未来、あらゆる可能性世界の隅々に至るまで。「存在」とは他から際立たせることである。他のものがなくなってしまったら「存在」することはできない。だからもう推し[idol]はこの世界に「存在」することができなくなった。推し[idol]は世界そのものになったのだ。こうして、推し[idol]主義という偶像崇拝は宗教として完成する。推し[idol]主義者の内面世界にコピーされた推し[idol]は、推し[idol]本人の肉体を離れ、上位の次元へシフトする。形而上学的存在となった推し[idol]のコピー(=偶像)には始まりもなければ終わりもない。過去も未来もない。一瞬が永遠であり。永遠が一瞬だ。だから原因もなければ結果もない。形而上学的存在はこの世に「存在しない」のだから、因果律からも解放されているのだ。推し[idol]という現実の「存在」が「非存在」へ変わっていく一部始終をその目に焼き付けた推し[idol]主義者は、「因果の彼岸[nirvana]」を確信する。原因があって結果があるという、誰にもどうにもならない、このどうしようもない絶望的な宇宙の法則から、束の間、逃れることができる。そしてその一瞬は、永遠だ。宗教は、このようにして人を救うのである。

推し[idol]主義は非中央集権宗教だ。教祖はどこにもいない。教会もない。信仰対象もみんなバラバラだ。アイドルでも、アニメや漫画のキャラクターでも、自分の頭の中にしか存在しないイマジナリーコンパニオンでもいい。誰かを、何かを「推す」こと。教義はそれだけである。この分散型の信仰の形は、非常に現代的で、これから先、世界宗教となるポテンシャルを秘めているように思える。これはたしかなひとつの可能性ではあるが、文章がだいぶ抹香くさくなってきたので、推し[idol]主義についての論はここまでにしよう。次は、因果律を超越しようとする試みではなく、因果律に従ったその先の可能性を論じてみたい。つまり、問いの形はこうだ。いま、世界において、何が「正統」なのか?

ワールド・スタビライザー

上の問いに答えるには、辛抱強く世界の複雑さと向き合い続けなければならない。その道程には多くの落とし穴が待ち構えている。人はそれを「魔境」と呼ぶ。抹香の匂いが残っているうちに、この穴の回避方法を論じておきたい。といっても、方法は簡単だ。ただ常に自分の思考を客観視するだけでいい。さっきのような話に神秘[sacred]を感じたなら、それは間違った読み方だ。僕が書いているのはただのよくある日常[ordinary]のありふれた話なのだから(因果律は凡庸な宇宙の法則!)。日常[ordinary]から切り離された神秘[sacred]はすべてまやかしである。もしそのような神秘を得たいなら苦しい修行も難しい理屈もいらない。幻覚剤をキメるだけでいい。幻覚剤は人を神秘の世界へ、論理と条理を超越したワンダーランドへ連れていってくれる。しかしその神秘体験にはすべからく(笑)を付与しなければならない。悟り(笑)。この原則は、健康優良不良少年だったころから僕が自身に組み込んでいる知のスタビライザー(安定化装置)である。

諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。古人も、「自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である」と言っている。君たちは、その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となり、いかなる外的条件も、その場を取り替えることはできぬ。
入矢義高 訳注「臨済録」 p.51

諸君、偉丈夫たる者は、今こそ自らが本来無事の人であると知るはずだ。残念ながら君たちはそれを信じきれないために、外に向かってせかせかと求めまわり、頭を見失って更に頭を探すという愚をやめることができない。円頓を達成した菩薩でさえ、あらゆる世界に自由に身を現すことはできても、浄土の中では、凡を嫌い聖を希求する。こういった手合いはまだ取捨の念を払いきれず、浄・不浄の分別が残っている。わが禅宗の見地はいささか違う。ずばり現在そのままだ。なんの手間ひまもかからぬ。わしの説法は、皆その時その時の病に応じた薬で、実体的な法などはない。もし、このように見究め得たならば、それこそ真実の出家者で、日に万両の黄金を使いきることができる。諸君、おいそれと諸方の師家からお墨付きをもらって、おれは禅が分かった、道が分かったなどと言ってはならぬぞ。その弁舌が滝のように滔々たるものでも、全く地獄行きの業作りだ。真実の修行者であれば、世人のあやまちなどには目もくれず、ひたむきに正しい見地を求めようとするものだ。もし、正しい見地を得て月のように輝いたなら、そこで始めて修行は成就したことになる。
— p.58

君たちの世間では、仏道は修習して悟るものだと言うが、勘ちがいしてはならぬ。もし修習して得たものがあったら、それこそ生死流転の業である。(中略)世間には盲坊主の連中がいて、たらふく食ってから、さて坐禅にとりかかり、雑念を押さえこんで起こらぬようにし、喧騒を嫌い静けさを求めるが、こんなのは外道のやり方だ。祖師は言われた。「お前がもし心を住めて寂静を求めたり、心を振い起こして外面を照らしたり、心を収束して内面に澄ませたり、心を凝らして禅定に入ったりするならば、そういうやりくちはすべて無用な作為だ」と。
— pp.76–77

諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢ったら羅漢を殺し、父母に逢ったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、そうして始めて解脱することができ、なにものにも束縛されず、自在に突き抜けた生き方ができるのだ。
— p.97

まわりがみんな気狂いに見えてきたら、気狂いになっているのは自分の方だ。まわりがみんなバカに見えてきたら、バカになっているのは自分の方だ。自分が世界のすべてを知っているように思えてきたら、そこが「魔境」だ。世界の複雑さは人間の認識の限界を遥かに超えているのだから、世界のすべてを知ることなどできない。このことはどれほど頭のいい人でも、いやむしろ頭のいい人ほど実感しているようだ。

この世界がどのように構成されているのか自分で理解したい、という極めて単純な欲求が根底にある。「あの山の向うに何があるのだろう」みたいな、幼児が抱くような疑問と同じだ。実際のところ、成長する過程で多くの大人に、この手の単純な疑問を投げかけてきた。なぜ、勉強しなければならないのか。なぜ、学校に行かなければならないのか。なぜ、主要科目は国数社理英なのか。なぜ、受験があるのか。なぜ、英語の配点が高い入学試験があるのか。なぜ、大学に行かない人がいるのか。なぜ、大卒でないと入れない会社があるのか。
湧き上がる疑問に対して納得のいく回答を得られたことは《一度》もなかった。多くの場合は「そういうものだ」と面倒臭そうに言われたし、時には暴力によって言葉を発することを止められた。仕方がないから自分で調べることにした。一冊の書籍に自分の疑問を解消する知が凝縮されていればよいのだけれど、そんな都合のよいものはどこにもなく、乱読の末に、様々な社会の仕組みが立脚しているものが脆弱であることを知った。子供の頃に制度やルールに従うことを余儀なくされる度に、大人がしっかりと考えた相当な理由があるのだろうと違和感を飲み込んできた私が期待していたほど、頑健な合理性のあるものなどなく、恣意的に決まっていることばかりであると、「勉強」だけではなく四十数か国の旅や10年の滞米生活を経て、ようやく「こんなものだ」と理解することになった(まだあまりしっくりしていないのだけれど)。
今思えば、中学生のときにすでに「こんなものだ」と諦観している同級生がいた。大人に「何で?」と質問ばかりしていた私にたいして「そんなの《あいつら》に答えられるわけがない」と寂しそうな目で諭されたことがある。まだ1年生の夏前のことだ。それから卒業するまで同じようなやりとりが何度もあり、その度に、「いつになっても懲りないね」と笑いながら肩を叩かれた。別々の高校に入った後も、その同級生の言う通りだった。どれだけ投げかけてもまっとうな回答が得られたことはなく、ただ従うことを強いられた。
そんな自分が抱いてきた疑念に対する回答をしようと、研究することになった。言い換えれば、誰かが発表してくれていたら、研究もしていないし本書も執筆していない。もっと他にやりたいことがあるので、人生の時間が有限であることと合わせて、「やれやれ」と思う。しかも、中学生の私は本書を読んだら、追加の質問をしてくるに違いない。実際のところ、15歳の私は現在進行形で心の中に居座っているので、執筆しながら日々疑問を投げかけられていた。「彼」は一つの研究の限界に自覚的な国内外の学術誌の査読者たちよりずっと率直で手厳しい。その都度できるだけ答えたつもりなのだけど、「彼」はまだ全然納得していない。「この程度のことしかわかっていないのに、昨日の劣化コピーのような教育実践とか政策が今日も疑いなく行われているのっておかしくない? 過去や現状を把握せず内省もしないのに「主体的で深い学び」? 批判的思考[クリテイカル・シンキング]? それって悪い冗談だよね」と細い肩を震わせて怒っている。ちゃんと答えられない大人の一人になってしまって、申し訳ないと思う。
松岡亮二「教育格差──階層・地域・学歴」 おわりに

こういったエリートの告解は非エリートの僕に勇気を与えてくれる。ヨタヨタのジャンキーだったときでさえ自己批判精神を手放さなかったことは間違いではなかったのだと思える。実際、エリートの経典である学術誌だって完璧なものではない。査読は論文の正当性を高めるかもしれないが、査読者自身の正当性はどう担保するのか、査読者の権威によって担保されるのならその権威はどこから来るのか、学会や学術誌のような権威によってではないのか、堂々巡りじゃないか、という問題がある。同領域の研究者なら論文の内容を自らの手で検証して正当性を確認することができるかもしれないが、一般人にはたいていこんなことは不可能だ。それなら他領域の研究者も含め、大多数の人は権威を盲目的に信じるしかなくなる。ここで重要なのは、こういった構造を把握した上でなお、権威主義的な信仰(正しさの根拠)を可能な限り分散し、「これはそれなりに信用できそうだ」と、ひとまずの落とし所を見つけることだろう。最初の方で述べたように、科学も宗教と同じく誰かが勝手に「言い切った」ものでしかない。しかし宗教が中央集権であるのに対して、科学は、原理主義に陥らないよう、教条主義的にならないよう、自身を非中央集権化させ、可能な限り権威の負荷分散を行い、誰もが「これはそれなりに信用できそうだ」と思える体制を作り上げている。それはとても危ういバランスの上に成り立っているものだし、査読にかかる負荷の問題等を起因として将来的にこういった権威の負荷分散体制が見直される可能性は十分にあるが、その上に積み上げられた知がどれほど不安定なものであっても、現代文明がこれに依拠していることは紛れもない事実だ。この歴史の重みこそが、まさに科学の権威を支えている。

このように「様々な社会の仕組みが立脚しているものは脆弱」である。誰もがなんとなくお金を使ってなんとなく暮らしているが、お金の正体を誰も知らない。日本では法を守らなければならないと考える人が多いが、世界の大多数の国では裁判所の地位は低く、軍部や行政府が裁判所の判決を無視することは日常茶飯事だ。歴史を俯瞰すれば「国」の意味するところは多様で、国民国家なんてここ100年くらいの流行にすぎない。貨幣も法も国家も、実際のところただのフィクションにすぎない。これらは自然の法則とは違い、人々が信じなくなればあっさりと消え失せるしろものだ。こんなあやふやなものが現代社会の基礎部分に鎮座していることはたちの悪いジョークのようにも思える。なぜこんなあやふやなものを根拠にしながら、社会は今日も問題なく動いているのか? もちろん答えは、人々がこれらを信じているからだ。数百万人、数千万人、数億人が同じ幻想を見るなら、そのフィクションは、リアルに変わる。立法府も、行政府も、司法府も、警察も、軍隊も、国民がリアルだと思っているから現実に力を持つのだ。国家という暴力装置は、国民の見る夢によって魂を吹き込まれた巨大怪獣である。

国家はフィクションだがリアルだ、という上のような言説はそれなりに納得できるものだろう。広域指定暴力団日本国はみかじめ料を徴収し、組の掟に従わないやつにはきっちり落とし前をつけさせる。みかじめ料とは税金であり、組の掟とは法律であり、落とし前とは刑罰である。その根拠がフィクションであったとしても、国家には実際に「執行力」があるのだからリアルだと言わざるをえない。しかしレイヤーを一階層上げると見える景色がガラリと変わる。

今日の国家には、国内のあらゆる主体を法的に義務づける立法府があり、法が適用される主体(「法の受範者」)間のあらそいを強制的に解決する権限をもつ裁判所があり、法や判決を軍や警察力を用いてでも強制する力をもつ政府がある。紛争を解決する交渉の際、すくなくとも先進国では、「あなたがわたしの主張を受け入れなければわたしは裁判に訴えます。あなたは違法行為をおこなっているのだから裁判では負けます。だから、わたしの主張を受け入れて話し合いであらそいを解決した方がいいですよ」という「脅し」(「敗訴の威嚇」)が効く。
国際社会ではそうはいかない。国際法の受範者(具体的には多くは国家)の意思に反しても法を強制する制度は、(先進国の)国内社会ほど確立していない。国際司法裁判所(ICJ)をはじめとする国際裁判所は国家に対して強制管轄権をもたず、国家間では国内の紛争当事者間の交渉のように「裁判に訴える」という脅しがはたらく余地は小さい。また、国家間には巨大な力の格差がある。大国が国際法を破っても、被害国が対抗・報復の措置をとることは容易でない。貿易・金融関係の断絶といった措置は、逆に被害国にとって自殺行為になりかねない。さらに、大国が国際法を破っても、国連をはじめとする国際組織が制裁を加えることも実際上容易ではない。
大沼保昭「国際法」 第1章-II-1

「地球連邦政府」なるものは存在しない。国連のような国際組織はあっても、それは一国を一手に管轄する政府組織とはまったく性質を異にするものだ。組の掟を破ろうとたいしたお咎めもない。組を抜けるのに指を詰める必要もない(e.g. 我が代表堂々退場す)。地球全体をカバーする組織機構は存在しない。地球全体を管轄する立法府・行政府・司法府は存在しない。だからA国とB国の間で紛争が発生したとき、国際裁判所が「A国側に非があるので賠償をするように」と判決を下したとしても、それはまったく執行力をともなわず、その言葉はフィクションじみたものとなる。

にもかかわらず、実際には国際法の多くの規則は遵守され、その法規範は日々実現されている。それは、貿易や国際通信、国際航空など、さまざまな分野における国際法の実施を前提としているわたしたちの生活が、日々営まれていることからも証明される。なぜ諸国は強制機構による担保が不十分な国際法を守るのだろう?
— 同前 第1章-II-1

本書は、国内法よりさらにフィクションじみた「国際法」というあやふやで複雑怪奇な仕組みを丁寧に紐解き、さまざまな実例と解釈を点描のように配置しつつ全体像を浮かび上がらせた良書である。僕はずっと「国際法はなぜ機能するのか? 国民が作り上げた共同幻想としての法の支配が機能するのは理解できるが、なぜ国際社会という上位レイヤーにおいても法の支配は機能するのだろうか?」という疑問を持っていたのだが、本書でその疑問がかなりの部分氷解した。

まず、国際法は多くの国家にとって──つまり国家という制度を通じて国際社会に参与する人々にとって──有用な制度である。現代の国際社会、そこにおける秩序と人類に有用な諸活動は国際法なしにはありえない。このことは、「もし国際法がなければ」という問いを発してみればすぐわかる。
国際社会には約200の国があり、約75億の人がくらしている。人々はキリスト教、仏教、イスラームなど、多様な宗教を信じている。そうした宗教にはさらに教義や信仰のありかたをめぐって大きなちがいがある(キリスト教にはカトリックとプロテスタント、イスラームにはスンニ派とシーア派のちがいがあり、そのなかにも無数の分派がある)。道徳観にも、政治・経済・文化観にも、諸国間、人々のあいだには巨大なちがいがある。
むろん、「殺すな」「他人を敬え」といった、抽象度の高い人類共通の規範を考えることはできる。だが、こうした抽象的な規範では75億の人、200余の国、無数の団体の行動を具体的に規律し、秩序づけることはできない。また、無数の宗教や道徳に共通する規範を文章化して世界の人々に示す典拠も存しない。子午線であれ世界共通時であれ、世界中に妥当する制度は人類にとって有用であり、それなしには現代人は生活を送ることができない。国際法もそうした世界中に妥当する有用な制度である。
(中略)諸国は国際法の個々の規則を破ることはあっても、国際法という制度そのものを廃棄しようとはしない。それは国際法が制度として有用であり、それに代わる制度が考えられないからである。
国際法を一見簡単に破れそうな大国にとっても、国際社会の多数を占める小国にとっても、国際法は有用であり、両者ともおおむね国際法を守り、利用している。
国際法の定立には──国内法でも実は同じだが──力がものをいう。大国の利益・価値観に真っ向から反する国際法を定立することは困難である。すくなからぬ国際法規範は大国の利益に仕えるイデオロギーとして機能する。国際法がそういうものである以上、大国にとっても国際法は否定するより、むしろ活用すべき道具である。
小国は、経済力や軍事力では大国に太刀打ちできない。国際法は「正義」「公平」「平等」を建て前とする「法」である以上、大国のイデオロギーとはいっても、むき出しの力よりはまだましである。しかも小国は国際社会で多数を占める。多国間条約にせよ慣習国際法といわれる不文法にせよ、国際社会の多数派の意思・利益を無視してつくられるわけではない。このように小国にとっても国際法は有用な制度である。
第二に、人類の歴史的な経験から、法を使って社会を運営することは人間にとって自明の、それなしには社会生活を考えることができない常態である。人は生まれたときからその法を守るべき国家の一員であることを否定できない。同じように、国際法が適用される国際社会の一員であることは、諸国の指導者にとっても一般市民にとっても、生きること、日々行動することの前提となっている。
(中略)
今日、諸国の政府は他国との関係を考え、行動するに際して、国際法を引照基準として、国際法との距離を測りながら物事を進める。それは、かならずしも諸国政府が法規範の遵守を第一義としているからではない。むしろ、近代以降の社会が、人間や人間集団が自己の意思を実現するうえで、法にのっとり、法を利用し、法に反しないようにすることが物事をうまく進める道となるようにつくられているからである。国際社会も、主権国家という近代の制度である主体を中心に構成された社会として、そうした近現代社会の特質を備えているのである。
第三に、国際法は「法」の一種として、「法=正しいもの、したがうべきもの」というイメージに支えられている。そうしたイメージは、「国際法=大国の政治の道具」という隠れた一面を覆い隠すイデオロギーではある。しかし、法の支配は人の支配、まして力の支配よりはましだという認識は現代世界でひろく共有されており、大国の指導者といえども正面から国際法を破ることのコストを十分考えて行動しなければならない。
「国際法違反」がもたらす負のイメージは、とくに法の支配の観念が浸透している先進国の場合、国際社会で非難を浴びるだけでなく、国内でも種々のコストを生じさせる。具体的には、国際法に反して行動する国家の政府は、①そうした行動により利益を侵害される被害国からの対抗・報復措置、②その法規則の実施(の監視)を任務とする国際組織や法規則の維持に利益を有する第三国からの制裁・圧力、③自国内の裁判所による国際法に反する行動の違法性の認定、④与党内の反主流派や野党、破られた法規則によって利益を守られている企業・圧力団体、その法規則に価値を見出すメディアからの非難、辞任・政権交代の要求など、さまざまな不利益を覚悟しなければならない。
諸国の政府が国際法の規則をあえて破って行動するのは、こうした不利益を上回る利益があると判断する場合にかぎられる。そうしたケースはそう多くない。国家指導者があえてこうした不利益を甘受しても追求すべき利益があると判断する場合にのみ、国家は国際法を破り、自己が利益と信ずることを貫徹しようとするのである。
武力紛争のときでさえ国際法がまったく守られないということはない。戦争も永久に続くものでなく、いつかは平和を回復しなければならない。また、完全に無制約な暴力は相手方の死に物狂いの抵抗を招いて自国軍の犠牲をふやし、中立諸国の支持を失い、戦争を長びかせる。それは自国の出費を増大させ、国内での反戦・厭戦感情による自国政府批判を招くなどの不利益を招く。武力紛争に一定の制約を課す国際法は、これらの要因に支えられてそれなりの規制力をもっている。
— 同前 第1章-II-1

国際法は社会の重要な制度として定着していることにより、人々の発想を規定し、影響をおよぼす。人々が物事を考え、なんらかの行動をとるうえで、「国家」「領土」「主権」などの国際法上の観念を無意識のうちに取り入れており、問題を考察し、定式化するうえで影響を受ける。国際法はそうしたはたらきによって多様な主体間の関係を統御し、誘導する機能を営む。これは、個々の国際法規範が行為規範、裁判規範として有する行為の制御的機能に対して、発想ないし行為の構成的機能といえる。
武力紛争が発生したとき、国連憲章に代表される国際法は、そうした武力紛争をどのように認識し対処するか、という認識と判断の枠組みとして、他の観念や制度──紛争解決のための外交的知恵、軍事的制御の可能性、紛争の根源を探る経済学・宗教学など──とともに、問題を定式化し、解決への選択肢を提示する機能を営む。国際貿易・投資にかかわる問題は、WTO協定、自由貿易協定、投資条約などの枠組みを通じて、経済学的な発想規定要因その他の要因とともに考察され、対処される。そうしたはたらきを通じて世界貿易・投資にかかわる全世界的な体制ないし制度が日々(再)構築され、運営される。
国際法はさらに国際社会のさまざまな主体の意思を伝達する機能を営む。国際法は、利益、価値を異にし、対立する紛争当事国にとって、貴重な「
共通のことば」である。国際法に訴えるということは、武力や圧力を用いるのと異なり、非暴力的手段で問題を処理するという意思を相手に伝えることであり、物事の平和的処理という性格をもつ。他面、国際法は「法」として最終的にはその内容を強制的に実現する根拠となる。国際法に訴えるということは、強制的・非妥協的な要求実現の可能性を相手方に示唆する意味をもつ。国際法は外交の手段であると同時に外交の柔軟性を制約する要因でもある。
国際法は、意思伝達機能を通じて、国際社会のありかたに関する基本的な了解事項を高い正統性をもったかたちで示す。これは近現代の国際社会のありかたをみればあきらかである。17世紀中葉以来の欧州の国際関係はウェストファリア体制、戦間期の国際関係はベルサイユ体制とよばれる。これは、ウェストファリア条約、ベルサイユ条約という多国間条約にそれぞれ表現された国際関係のありかたを示している。
また
国際法は、国際人権規約や地球環境保護に関する多国間条約のように、人類が達成すべき理念を体現する機能を営む。かりにこれらの条約の規則が厳密に守られないとしても、こうした国際法は、諸国の共通行動の準則を示すことにより、諸国の行動が国際法の規定する方向に収斂することを促進し、国際社会の共通理念の実現に資するのである。
最後に、前述のとおり国際法は法として「したがうべきもの」「正しいもの」というイメージをもっているため、国家の行動を正当化する機能を営む。諸国は、国際法が自己の利益追求の障害となる場合は自己の行動を国際法上正当化しやすいものになるように工夫し、さまざまな理論や先例を持ち出して自己の行動の国際法的合法性を主張する。国際法を正面から否定することは、国際政治上も国内的な支持獲得の点でもさまざまな不利を招き、例外的である。
このことは、国際法が諸国の利益追求を隠蔽するイデオロギー機能をはたすことも意味する。と同時に、国際「法」により正当化するという事実は、諸国の政府の選択肢に一定の制約を課し、相互が正当化を提示する際いずれが法的により適切な解釈かを《自他と第三者に呈示する》ことにもなる。こうした論争の過程を通じて、国際法は紛争解決の基準を示し、紛争解決を促進し、国際法が体現する共通理念の方向へと諸国の行動を収斂させるのに貢献するのである。
— 第1章-II-2 (太字協調は引用者による)

これは本書の端緒にすぎないが、なんとなく国際法というものの輪郭はぼんやりと見えるのではないだろうか。全体像をはっきり見たい人は本書を読み通すしかないが、たとえば、その性質上どうしても茶番[charade]にならざるをえない国際裁判については以下のように論じられている。

もっとも国際社会において裁判が国家間紛争の解決に無力だからといって、国際法が無力だということにはならない。法の意義・役割と裁判の意義・役割は別の問題である。法によらない裁判はありえないが、裁判によらない法は多くの社会で常態である。裁判は法を実現する一手段であり、それ自体が価値あるものではない。法が正しい内容をふくむかぎりにおいて法が実現されることが大切なのであって、それがいかなる手段によるかは二次的な問題である。社会に法が存在しそれが人々の規範意識として定着していれば、その法は遵守される。裁判による強制は法の実効性の一部を担保するにすぎない。国際裁判への過大な期待は禁物である。
(中略)
国際法は紛争を一刀両断に解決するものではない。しかし、国際法の観点を取り入れ、問題を国際法の文脈に位置づけることにより、紛争当事国双方の主張の《相対的な正しさと説得力》が明らかとなり、紛争の激化を防ぎ、平和的解決を促進するものとなりうる。紛争の平和的解決における国際法の位置づけについては、こうした国際法の多面的な機能──裁判規範としての紛争解決的な機能のほかに、双方の主張を「国際法」という共通のことばで定式化して相手方、第三者に伝えるコミュニケーション機能、自己の主張を「国際法」という、正義を一定程度反映し、論理的一貫性をもった規範体系で正当化する機能など──をふまえた醒めた認識がもとめられる。
「双方不満なら良い条約」という外交格言がある。ここで「双方満足なら」ではなく「双方不満なら」というのが大切なところである。それは、利害、価値観、歴史認識、感情を異にする国家間の合意というのは途方もなくむずかしいものであり、双方が同じように不満ならそのような合意をもって良しとすべきだという教えをわれわれに示してくれる。それは飲みこみにくい真実である。しかし、とても大切な真実なのである。
— 同前 第8章-III-3

主義・思想・信仰が違えば価値観のすり合わせは困難を極める。しかしグローバリゼーションがここまで進んだ現代においてはどうしても避けて通れない道だ。その困難な道を歩いていく上で、国際法は数少ない共通の価値観、共通の言語として機能する。「グローバリゼーションが極限まで達すれば国家の時代は終わる!」と声高らかに叫ぶ人も多いが、むしろ、ここまでつながりすぎてしまった現代においてこそ、こういった共通言語の存在は重要なものである。

たしかにグーグルやアマゾンは軽々と国境を越え、国家の規制を無化しているようにみえる。アムネスティ・インターナショナルなどのNGOの力と役割は今日国際問題を考え、解決するうえできわめて重要である。しかし、わたしたちはグーグルやアムネスティがわたしたちを逮捕し、懲役刑を科すといったとき、それにしたがうだろうか。イエスと答える人は皆無だろう。強大な企業、世界的影響力をもつNGOといえども、国家に代わって人の存在を左右する《生殺与奪の権》をもつものではない。
— 同前 第2章-I-1

その共通言語の言葉はか細く、弱々しいものである。現在では人類共通の普遍的価値観であるように思われている「人権」にしたって、その道程は決して順風満帆ではなかったし、「人道的干渉」はいつだって「侵略行為」と表裏一体である。21世紀においても各地で人権侵害が行われている状況を世界が解決できないのは、過去の「人道的干渉=侵略行為」が枷となっているからだ。「人権は大事なものだから守れ」という強制(矯正・パターナリズム→ある種の人権侵害)は、果たしてどこからどこまで許されるのだろうか?

「人道的干渉」の問題に特効薬はない。ありうるのは、「より程度の低い害悪(lesser evil)」をもとめる規範的かつ実際的準拠枠組みの判断の下での具体的な行動の組み合わせでしかない。人道的干渉の問題は、「戦争と平和」の問題にかかわる国際法の問題性、否人間そのもののあらまほしき姿と現実の姿の乖離という問題を象徴的に示すものなのである。
— 同前 第9章-IV-2

ではやはり国際法は無意味なのだろうか?

[引用者補足:国連]憲章2条4項の武力禁止原則の下で自衛権がほとんど唯一の武力行使正当化根拠とされることは、ある意味では「戦争と平和」にかかわる国際法が偽善の体系であることを意味する。実態としては戦争なのに自衛権の行使と言い換えているにすぎないともいえるからである。しかし、武力行使にあたって自衛という正当化根拠しか使えないという事実、そうした規範意識が世界的規模で定着しているという事実が、正戦、聖戦、自己保存など、さまざまな正当化根拠がみとめられていた時代に比べて、国家の武力行使の決断を抑制するうえで力となっていること、また武力行使の拡大を防ぐ一要因となっていることは否定できない。
「自衛」ということばの通常の意味と語感からして、実際に軍事行動を「自衛」として正当化できる場合はかぎられている。にもかかわらず、正当化根拠として自衛という観念しか使えないとなると、武力行使に訴えようとする政府は、あきらかに説得力を欠くのにあえて自衛という主張をして諸外国や国内の反対勢力からの非難を浴びることを覚悟するか、武力行使を断念するかという決断を迫られることになる。戦後、自衛と正当化するのが困難であるにもかかわらず、「自衛」という正当化根拠を用いてその欺瞞性が広範に非難され、結局武力行使の目的を達することなく和平に追い込まれた例はすくなくない。米国のベトナム侵攻はその代表例だった。
たしかに武力禁止原則は偽善の体系かもしれない。そもそも国際法にかぎらず、法とは幾重にも折り重なったフィクションのうえに成り立って機能するものである。そうしたフィクションにはあきらかに偽善的なものもふくまれる。
そうであっても、その法が実際に右に述べたように実際に国家権力の手を縛り、社会的に有意義なはたらきを営んでいるのだとしたら、わたしたちはその法をたんに「偽善だから」と否定すべきではないだろう。国際法上武力禁止規範が存在せず、ある国が武力に訴えて自己の利益を貫徹しようとしたとき、諸国の政府、国際組織、メディア、自国内の批判勢力といった多様な国際法関与者が武力禁止規範に依拠してその政府の武力行使を批判する可能性を奪われているよりは、かりに偽善の要素をふくんでいたとしても、武力禁止規範があった方がはるかに望ましいといえるからである。
— 同前 第9章-IV-3

ここに至って、「国際法とはいったい何なのだろう?」という根本的な疑問が湧いてくる。国内法と比べてあまりにもフィクションじみている。こんなにも弱々しく実体のはっきりしないものを根拠にして国際社会は成立しているのか? いやそもそも、国際法なんてものが本当に存在するのか? 著者は本書の最後にこう述べている。

21世紀はこれまで支配的だった欧米中心のリベラルな国際法秩序が、超大国化しつつある中国、各種テロ集団、利己的な行動に走る地域大国などからさまざまなかたちで揺さぶられ、破られ、蹂躙される「国際法の冬の時代」となると考えられる。そうしたなかで国際法の強化に努め、その規範性、実効性の向上に力を注ぐのは、賽の河原に石を積み上げるような虚しい営為ではないのか。
読者がそうした絶望感にかられるのはよくわかる。そうした絶望や徒労感は1970年以来国際法の研究に携わってきたわたし自身、いやになるほど感じてきたものだからである。だが、である。国際法とはけっして日本国民から独立してなにか別の物として存在し、働くものではない。それは世界の約200の国の人々の(規範)意識を反映し、その200の諸国の行為──作為のほか不作為もふくむ──の総体として日々構築され、実現されるものなのである。(中略)
遅ればせながらとはいえ、メディアやNGOが、そして一般の人々がようやく国際法に関心をもつようになったのに、また「国際法とは無関係の世界」──実はそんなものは存在しない──に逆戻りしてしまうのは、あまりに惜しいのではないか。(中略)
人類は何千年もかけて戦争を今日のありかたにもってきたのである。その間、絶望に陥った人も数えきれないほどいただろう。あまりの徒労感から戦争の人道化という努力を放り投げようとした人も多かったにちがいない。しかし、なにはともあれ、人類は今日の戦争、武力行使一般を違法とする国際法のありかたにたどりついたのである。
わたしたちはそこに一抹の希望を見出すべきではなかろうか。国際法は本書でそれを解説しているわたし自身が情けなくなるほど弱く、欠陥だらけで、限界を抱えた法である。しかし、弱肉強食のルールが支配する国際社会で諸国の行動を規律する法が国際法しかない以上、わたしたちはそれに賭けるしかない。
— 同前 第9章-IV-3

ここでもやはり重要なのは歴史の重みだ。「国際法なんて存在しない」という言説は、その重みの前ではあまりにも軽すぎる。たしかに世界は歪み、屈折し、そのねじれを呑み込みながら膨張を続けてきたが、それでも自重で崩壊するようなことはなかったのだ。それは、国際法という弱々しくもたしかな「世界のスタビライザー」があったからである。国際社会を成立させるものは、それ以外にないのだ。だからやはりこれは、フィクションではなく、リアルである。

世界人権宣言、人間環境宣言、時宜に応じた共同声明、こういったものには基本的に法的拘束力はない。批准後に自国内で法を制定しなければならない条約とは違い、宣言や声明はただ「言葉を発した」だけである。しかしその「言葉を発した」という事実がとてつもなく重要な意味を持つ。それは人々の意識から発せられた言葉だが、その言葉は人々の意識に再び帰っていくのだ。それは価値観のポジティブフィードバックを起こす。人々の「これは善い[good]ことだ」という価値観を増幅させる。それを基にまた新しい宣言や声明が出され、また人々の価値観を増幅させ……人類史という試験管の中で何度も何度も繰り返されるこうしたポジティブフィードバックの結果、共通の価値観が、共通の言葉が生まれる。それが国際社会を成立させている。それこそが世界の最深部にあるものなのだ。だから宣言や声明はフィクションではなく、リアルである。

ここまでの議論を前提として、さきほどの問いに立ち返ろう。いま、世界において、何が「正統」なのか? 現代において、どのような「言葉」がメインストリームになっているのか? キーワードは、SDGsとESG投資だ。SDGsの言葉を支柱にして、ESG投資が世界経済の地殻変動を起こしている。利益のみを追求する搾取資本主義から、利益と幸福どちらも重視する倫理資本主義へ、公式のイデオロギーが入れ替わろうとしている。

倫理資本主義

キリスト誕生以前に、不死鳥というおかしな鳥がおった。何百年かごとに、薪を積みあげて、自分自身を火葬にする。きっとあいつは、人間のいとこだったんだろうな。ところが、この鳥は自分を火葬にするたびに、その灰のなかから、とび出すんだ。おなじものに、もう一度生まれ出るんだよ。そっくり、もとのすがたにだ。どうだね? わしたちに似ておるとは思わんかね? わしたちもそれとおなじことを、何度となくくりかえしておる。ただ、わしたちには、不死鳥のもっておらなんだものがある。わしたちには、いまやったことの愚劣さがわかるのだ。一千年ものながいあいだ、やりとおしてきた行為の愚劣さがわかるんだよ。それが理解できて、しかも、そのばかな結果を見ておるので、いつかは、火葬用の薪の山をこしらえたり、燃えあがる火のなかへとびこむまねをやめるときがくる。
レイ・ブラッドベリ「華氏451度」 第3部

2021年現在、新自由主義はその役目を終えようとしている。同時に、次の「あたりまえ」がどんなものなのかもぼんやりと見えてきた。その新しいイデオロギーを、本稿では便宜上、倫理資本主義と呼ぶことにする。その対比として、旧来のイデオロギーを搾取資本主義と呼ぼう。倫理資本主義という言葉に何か偽善的な響きを感じるかもしれないが、これは「利益(成長)を諦めて倫理的になりましょう」みたいな安っぽい理想論ではない。「倫理的でなければそもそも利益を出せない」という社会構造のことだ。倫理的であることが「あたりまえ」である社会では、倫理的でないものには誰も価値を見出さない。価値がないものは自由市場から排除される。だから市場で生き残っていくためには利益を追求すると同時に倫理的であることが必須となる。これが倫理資本主義社会である。この地殻変動は非常にゆっくりとしたものだったし、潮目が変わったのはつい最近のことなので、経済ニュースや新書を読む習慣がない人は気づいていないかもしれないが、この「空気」の変化は誰もが肌で感じ取っているのではないだろうか。

ちょっときつめのいじりとかあったときに、お客さんがもうあんまり笑っていないっていうか。
「ブスいじりとかは、やっぱり廃れていっちゃう」EXIT兼近さんと藤原しおりさんが語った若者の変化と、世界の未来のためにできること — ハフポスト (2020年7月4日付)

ポリティカルコレクトネスは窮屈だ、現代社会は息苦しい、と溜息をつく人もいるが、これは別に誰かが押しつけているものではない。ただ「空気」が変わっただけである。別に「空気」に逆らったっていいのだ。「なんだかよくわからない『空気』なんてものに支配されるのはまっぴらごめんだ!」と叫ぶのは自由だ。そこに価値を見出す人が多ければ一定の市場が生まれるはずである。しかし、芸人は多くの人を笑わせられるから芸人たりえるのだ。「空気」の読めない芸人は売れない。ポリコレを意識しない「いじり[tease]」はもうウケなくなってきた。自由市場の原理に従って、芸人は自身の思想がどうあれ、市場で生き残るためにポリコレを意識しなければならなくなった。これが倫理資本主義社会である。わかりすく言い換えよう。だってそういうの前時代的でおもしろくないんだもの。そんなのどうしようもなくね? 誰だっておもしろくないものよりおもしろいものを見たいに決まってるでしょう。

金融市場でもこれと同じような「空気」の変化が生じている。倫理的でない企業には資本が集まらなくなってきているのだ。サプライチェーン(部材調達先・物流・販売等、生産から消費までの連鎖)も含めて企業には世間から厳しい目が向けられるようになり、可視化が進み、数珠つなぎのうちの一箇所でも非倫理的なところがあればそれは明確な経営リスクとして換算される。「あー、はいはい、コンプラですよね。うちは清廉潔白ですよ(世の中そんな綺麗事で動いてるわけないだろ。まじめくさった顔でこんなこと言い出すやつは『裏の論理』をわかってないから困る)」などと本音と建前を使い分ける経営者は投資家から眉をひそめられ、資本が集まらず、商売ができない。そういう「空気」になってきている。この流れを作ったESG投資については後段で論じたい。

そもそも「倫理的」とはどういうことだろうか。「なにが善い[good]のか」は時代や地域によって異なるものだ。何を持ってして「倫理的」だとするのか? その答えはさっき、世界の最深部で見た。国際社会を成立させる、弱々しくもたしかな言葉。世界人権宣言、人間環境宣言……ここに至るまでもたくさんの言葉が積み重ねられてきたし、このあとにもたくさんの言葉が積み重ねられた。たくさんの条約が結ばれてきた。そうして歴史は進んできた。この共通言語こそが「世界の倫理」だ。この言語は抽象的で、概念的で、あやふやで、いまいち実体がはっきりしない。そうしなければ共通化できなかったのだからしかたないとはいえ、このままではたいして意味のないものだ。だからこの言語をもう少し具体化しようとするムーブメントが各所で生まれた。それを取りまとめたのがMDGs(Millennium Development Goals、ミレニアム開発目標、エムディージーズ)である。

2000年の国連ミレニアムサミットにおいて189か国の全会一致で採択されたMDGsは、貧困と飢餓の撲滅等8つの目標と21のターゲットを掲げ、これをある程度達成した。極度の貧困下に暮らす人の数は1990年時点で19億人だったが、2015年時点では8億3600万人に減少した。この進捗のほとんどはMDGsが採択された2000年以後のものである(cf. The Millennium Development Goals Report 2015日本語概略)。しかし目標の達成は地域によってバラツキがあり、MDGsのような世界的ムーブメントから「取り残された人々」の存在も同時に浮かび上がらせる結果となった。このMDGsの成果と反省を踏まえて、今度こそ「誰ひとり取り残さない[No one will be left behind]」を基本理念として、2015年の国連サミットにおいて再び193か国の全会一致で採択されたのがSDGs(Sustainable Development Goals、持続可能な開発目標、エスディージーズ)である。ここでは17の目標が掲げられている。

1. あらゆる場所のあらゆる形態の貧困を終わらせる
2. 飢餓を終わらせ、食料安全保障及び栄養改善を実現し、持続可能な農業を促進する
3. あらゆる年齢のすべての人々の健康的な生活を確保し、福祉を促進する
4. すべての人々への包摂的かつ公正な質の高い教育を提供し、生涯学習の機会を促進する
5. ジェンダー平等を達成し、すべての女性及び女児の能力強化を行う
6. すべての人々の水と衛生の利用可能性と持続可能な管理を確保する
7. すべての人々の、安価かつ信頼できる持続可能な近代的エネルギーへのアクセスを確保する
8. 包摂的かつ持続可能な経済成長及びすべての人々の完全かつ生産的な雇用と働きがいのある人間らしい雇用(ディーセント・ワーク)を促進する
9. 強靱(レジリエント)なインフラ構築、包摂的かつ持続可能な産業化の促進及びイノベーションの推進を図る
10. 各国内及び各国間の不平等を是正する
11. 包摂的で安全かつ強靱(レジリエント)で持続可能な都市及び人間居住を実現する
12. 持続可能な生産消費形態を確保する
13. 気候変動及びその影響を軽減するための緊急対策を講じる
14. 持続可能な開発のために海洋・海洋資源を保全し、持続可能な形で利用する
15. 陸域生態系の保護、回復、持続可能な利用の推進、持続可能な森林の経営、砂漠化への対処、ならびに土地の劣化の阻止・回復及び生物多様性の損失を阻止する
16. 持続可能な開発のための平和で包摂的な社会を促進し、すべての人々に司法へのアクセスを提供し、あらゆるレベルにおいて効果的で説明責任のある包摂的な制度を構築する
17. 持続可能な開発のための実施手段を強化し、グローバル・パートナーシップを活性化する
持続可能な開発のための2030アジェンダ

外務省が公開しているこのPDFのタイトルは「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」となっている。2015年に国連で採択されたのは「SDGs」という文書ではなく、この「2030アジェンダ」と通称される文書であり、その中で17の目標とそれに紐づく169のターゲットが設定されている。一般的にSDGsと呼ばれるのはこの目標(ゴール)とターゲットの部分である(だから “Goals” なのだ)。「2030アジェンダ」という文書は、「2030年の地球はこうなっていて欲しい」という未来のビジョンを思い描いた文章であり、同時に、その空想を具現化するための地球規模の行動計画書なのだ。その計画(目標とターゲット)がSDGsである。

MDGsに「対応」していたのは一部の国際企業くらいで、言葉自体があまり知られていなかったが、SDGsはもはや国際企業にとどまらず、中小企業・NPO・NGO・政府・地方自治体、あらゆる組織を巻き込んで、世界的なムーブメントになっている。この違いはなんだろうか? 理由は多岐にわたり、そのどれもが重要なので一概には語れないが、それでもあえてひとつ理由をあげるなら、世界がつながりすぎてしまったから、だろうか。この言葉はネガティブな意味で使われることも多い。価値観の違いによる文化衝突、現在進行中のコロナ禍、これらは世界がつながりすぎてしまったから発生したのだ、人類はもっと分かれて暮らした方がいいのだ、と。それはたしかにそうかもしれない。しかし世界がここまでつながったからこそ、グローバルサウスや気候変動のような、地球規模で取り組まなければ解決できない問題に対処できるようになったのではないか? いつも自分が握りしめているスマホに紛争鉱物が組み込まれていると知った人は、スマホから染み出すおびただしい血で自分の手が真っ赤に染まる幻覚を見る。自国の豊かさは他国の窮乏によって成り立っているのだと、理屈ではなく誰もが「体感」し始めた。「本当の幸福とは何だろう?」と誰もが考え始めた。環境について、社会について、人間について、自分について、ここまで多くの人が考えをめぐらせた時代がこれまであっただろうか? 隠しボスから逃亡を許されていないアイドルオタクを思い出そう。現代では誰もが「にげる[flee]」コマンドを封じられつつある。南北問題にせよ環境問題にせよ、つながりすぎて、距離が近くなりすぎて、関係が深くなりすぎて、ついに僕たちは不経済を外部化できない地点に至った。もうこの先はない。ここに来てようやく「共有地の悲劇[tragedy of the commons]」が「自分ちの悲劇[tragedy of my home]」になったのだ。だからこそ、SDGsは人口に膾炙したのではないだろうか。

そしてそのSDGsがまたこの流れを加速させる。前述したようにSDGsには17の目標と169のターゲットが設定されているが、その進捗状況を測るために、232の指標が設定されている。ソクラテスが「遠くの苦痛は小さく見え、近くの快楽は大きく見える」と言ったように、悲惨を減じ、幸福を増やすためには、まずもって測量しなければならない。SDGsの232の指標は、これまでまともにデータを取っていなかったものが多い。それを正確に測量することによって、世界の本当の姿を照らし出すのだ。僕たちは僕たちがどんな世界に暮らしているのかさえ、まだよくわかっていないのだから。そしてこの測量こそが、旧来の搾取資本主義を終わらせる可能性を秘めている。他者や自然から富を削り取ることによって資本を増大させる行為は、その結果として生じる不経済を世界の複雑さにまぎれさせることによって正当化されてきたにすぎない。測量が進み、世界の本当の姿が照らし出されたとき、これまで新自由主義が見せてきた夢はただのありふれた「不経済の外部化」にすぎなかったのだと白日の下に晒されるだろう。これまでどのような批判も寄せつけてこなかった現代最強のチャンピオン、新自由主義は、このチート行為の発覚によって信用と支柱を失い、王座を追われることになる。そしてそのベルトを継ぐのが、倫理資本主義なのだ。

上の話は僕の妄想がかなり入っているのであまり真に受けない方がいいと思うが、しかしやはりこの全世界的なムーブメントはCSRのような慈善活動とはあきらかに性質が異なっている。「利益度外視で社会貢献」のようなものではないのだ。むしろSDGsによって利益が生まれるように、市場の仕組み自体が組み替えられつつある。自由市場では誰もが価値あると思うものが本当に価値あるものだ。その「価値」の対象が変わってきている。「一般的な価値」の意味するところが変化してきているのだ。

企業が世界に張り巡らせたサプライチェーンの抱えるリスクが資本市場で認識されるきっかけをつくった企業は、米国のスポーツ用品大手ナイキです。
一目で分かる「スウッシュ」マークや、人気バスケットボール選手とタイアップした「エアジョーダン」で1990年代に世界的な人気を得たナイキですが、その背後でサプライチェーンリスクが膨らんでいました。
1992年に「ハーパーズ・マガジン」がナイキの下請け工場で働くインドネシア人女性が、きわめて安い時給で働いている実態を告発しました。これを皮切りに、1993年から96年に「ニューヨーク・タイムズ」や「フォーリン・アフェアーズ」「エコノミスト」「ライフ」など米英の有力メディアが相次いでナイキの下請け工場の劣悪な労働環境を批判的に報じていきます。
これに対するナイキの対応はどうだったでしょうか?
米ハーバード大学のヘンダーソン教授の著書によれば、ナイキのアジア担当副社長がこう言ってのけたそうです。
「そもそも製造についてはよくわかりません。われわれはマーケッターであり、デザイナーなのです」
また、インドネシア・ジャカルタ在住のマネジャーの言い分はこうでした。
「彼らは下請け業者であり、『労働規則違反の申し立て』の調査は、われわれの範疇ではありません」「われわれはここにやって来て、何千人もの仕事がなかった人たちに仕事を与えたのです」
おそらく、法律的にはナイキがサプライチェーンの下請けの労働環境に責任を持つ義務はなかったのでしょう。しかし、人気とは裏腹の傲慢な会社の姿勢に消費者の間から批判的な声が強まり始めます。圧倒的な人気と需要にもかげりが見えてきました。何よりも打撃だったのは、ナイキを搾取や児童労働などと関連づける報道の多さでした。
問われていたのは、それが合法的か否かではなく、ベストプラクティス(最善の行為)かどうか、でした。低賃金の下請けを最大限に使って利益を得るビジネスは、株主のためにはなっても、市民社会の尊敬を得ることはできません。結果としてブランド価値は下がり、収益力の低下を招き、株主のための経営責任さえ果たすのが危うくなったのです。
ナイキの創業経営者であるフィル・ナイト氏が事態の深刻さを認識したのは、1998年5月のこと。そこから同社は第三者機関によってサプライチェーン全体の実態に目を光らせるようになります。今では、ナイキと言えばNGOなどのサステナビリティ調査で優秀会社の上位に名前が出る常連となりました。
ナイキの変身は、良きグローバル企業は下請けや協力会社を含め、サプライチェーン全体に責任を持つべきであるという規範を打ち立てました。これを2000年代に台頭したSRI(社会的責任投資)投資家が支持し、現在のESG投資家に引き継がれていきました。
小平龍四郎「ESGはやわかり」 第3章-5

現在のナイキが毎回「倫理的」な広告を打っているのは上のような経緯による。コモディティ化が極限に達した時代においては「倫理」こそがブランド力(価値)の源泉だと、過去の苦い経験から身を持って知っているのだ。20世紀末、ナイキは消費者からこう言われたのである。「労働搾取工場[sweatshop]」で作られた商品なんてダサすぎるでしょ。そんなダサいもの身にまといたくない。レッドカード! 市場から退場せよ! この言葉を真摯に受け止め、反省し、軌道修正したからこそ、ナイキはいまもブランド力(価値)を保っているのだ。

このように前世紀から消費者側には倫理に価値を見出す動きがあったが、企業・投資家側がこういった問題に対応する理由は、あくまでレピュテーションリスクを回避するためであった。CSR(Corporate Social Responsibility、企業の社会的責任)にしても、「ちゃんと社会貢献してますよ」というジェスチャーにすぎず、それは「やらされているもの」であり、利益を犠牲にして行われるCSR活動は、それ自体で正当化されるものではなかった。搾取資本主義時代の「あたりまえ」は、あくまで「利益を追求すること」であり、慈善活動はそれに寄与する範囲で「お目こぼし」されているものにすぎなかった。誰がそうさせていたのだろうか? 答えは消費者(労働者)自身だ。金融市場で最も強力なプレイヤーは年金基金と保険会社だが、その資産の実体は消費者(労働者)の資産の集合である。そして年金基金や保険会社のような機関投資家は自身で運用を行わず、運用会社に資産を託すが、一般の人々の意見をつのって資産を運用することなどできるはずもないので、運用会社には「受託者責任[fiduciary duty]」という厳しい義務が課せられる。巨大な資産を好き勝手に運用できるなら運用会社は相場を操作し放題になり、自由市場が歪められてしまうからだ。この法的義務に従わなければ司法に裁かれるのだから、運用会社は「利益を追求する」ことに専念しなければならない。こうして、消費者(労働者)の「一般意志」として、「利益を追求せよ、慈善活動はそれに寄与する範囲で許可する」という声が企業を縛るのである。これが搾取資本主義の真の姿だ。マルクス主義者が想定するような強欲な資本家ではなく、消費者(労働者)自身の「一般意志」がこの「あたりまえ」を作るのだ。しかし21世紀に入ってからこの「あたりまえ」が揺らぎ始める。

1. 私たちは、投資分析と意思決定のプロセスにESGの課題を組み込みます
2. 私たちは、活動的な所有者となり、所有方針と所有習慣にESGの課題を組み入れます
3. 私たちは、投資対象の主体に対してESGの課題について適切な開示を求めます
4. 私たちは、資産運用業界において本原則が受け入れられ、実行に移されるように働きかけを行います
5. 私たちは、本原則を実行する際の効果を高めるために、協働します
6. 私たちは、本原則の実行に関する活動状況や進捗状況に関して報告します
責任投資原則

2006年に策定されたPRI(Principles for Responsible Investment、責任投資原則)は、投資の際には利益だけでなくESG(環境[environment]、社会[social]、ガバナンス[governance])も考慮すべきとする原則である。これに署名したところで法的拘束力はいっさいないが、何度も言うように、「言葉を発した」ことこそが重要なのだ。投資というゲームに参加するプレイヤー同士で「これが価値あるものだ」と確認し合うことこそが肝要なのだ。2006年に50の署名機関から始まったPRIは、2015年には1400を超えた。同年、その巨体ゆえに「市場のクジラ」とも呼ばれるGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)が署名し、日本の署名機関数も増え続けている。このように市場の強力なプレイヤーがこぞってESGを重視し始めるとどうなるか? 市場の「一般的な価値」がズレてくるのだ。自由市場では誰もが価値あると思うものが本当に価値あるものだ。倫理的であることに価値があると思う人が多ければ本当にそのようになる。そして価値があるなら利益を出せる。倫理的であることで利益を出せるなら受託者責任に反することはない。投資の際にESGを考慮すること、ESG投資は、違法ではない。むしろ、ESGを考慮しないことの方が受託者責任に反するとする指摘すらある(cf. FIDUCIARY DUTY IN THE 21st CENTURY日本語概略)。何より、これは人間が誰もが持つ「社会の役に立ちたい」という欲求に完全に合致する。他人から憎まれたい人間などいない。誰だって感謝されたい。それは資本家だって同じだ。誰かから搾取するのではなく、自然を破壊するのではなく、持続可能な社会で利益を得る。誰だってそんな世界に生きたいのだ。こうしてESG投資は、よくある一過性の流行に終わらず、大きなうねりとなって市場全体の価値観を組み替えていった。

そうした市場の力に押される形で、「責任あるサプライチェーン」の考え方は他の企業にも急速に広がりました。
その一つの到達点を示す企業が米アップルです。2020年7月の「2030年までにサプライチェーン全体の二酸化炭素排出をネットでゼロにする」という発表は、世界中のESG投資家を驚かせました。
ちょうど米大手IT企業のトップが出席する米議会の公聴会に市場の関心が集まっていた時期だったため、アップルの脱炭素宣言に注目する向きは少なくありませんでした。しかし、筆者が日ごろから話している欧州の投資家や環境団体は、「画期的なこと」と興奮気味に語っていました。
どういうことでしょうか。
企業の脱炭素の取り組みは3つの段階(スコープ)に分けて考えるのが普通です。
スコープ1は、自社の生産活動に伴って排出される二酸化炭素を抑制したり、ネットでゼロにしたりする段階。
スコープ2になると、生産活動に伴う電力使用を通じた間接的な排出が対象になります。
そして、スコープ3は、原材料の仕入れや下請けの組み立て、販売など自社以外のすべてのサプライチェーンを含めて脱炭素を目指します。
段階が上がれば難しい取り組みが求められ、スコープ3のネットゼロを宣言したのは大企業としてはアップルが初めてだったと見られます。
アップルはすでに自社での消費電力はすべて再生エネルギーでまかなっており、サプライヤーに対しても同様の取り組みを促したわけです。省エネの支援投資や電子部品のリサイクル強化。脱炭素のアルミニウム精錬工法の開発後押しや、さらには森林保護などできることはすべてやる姿勢を強く打ち出しました。
この発表の後、アップルはESG投資家に買われ、時価総額世界一の座に返り咲くことができました。サプライチェーン全体に責任を持つ姿勢が、株主利益にもかなうことを示す端的な事例とも言えます。
小平龍四郎「ESGはやわかり」 第3章-5

上のように、現代の企業が倫理的でなければならない理由は、慈善や義務からではなく、それこそが現代の市場における競争力だからだ。最近、国際企業が自身のサプライチェーンで人権侵害が発生していないか常に目を光らせたり、競い合うように環境問題に対する施策を発表している理由がまさにここにある。ESG投資によって価値観の組み替えられた現代の市場では、倫理的でない企業は生き残れないのだ。もうこの流れは止められないのではないだろうか。旧態依然とした搾取資本主義のイデオロギーに囚われたままの経営者・投資家は、「コロナ禍で大変なのにSDGsとかESGとか言ってる場合じゃないだろう」と主張するかもしれないが、それは現代の市場の価値観とズレているため、この人は市場からはじき出されてしまうだろう(当然ながらここで福祉が機能しなければならない)。2021年現在は搾取資本主義と倫理資本主義がオーバーラップしているので、見える範囲で何の変化もなく、搾取され続ける日々を送っている人は「そんな変化など起きていない!」と叫びたくもなるだろう。しかしこの地殻変動はマクロのレイヤーでたしかに発生しているのだ。SDGsとESG投資を否定することは、その変化を遅らせる結果になるだけである。目の前の現実がまったく変わらないように見えても、世相は日々刻々と変化している。10年前、20年前と現在を比較してみれば、世界はたしかに変化していることが誰にでもわかるはずだ。毎日届けられる不条理なニュース、腐敗した政治経済のありように絶望するよりも、このマクロの地殻変動をさらに推し進め、倫理資本主義を「あたりまえ」にすること、それこそが、誰もが笑って暮らせる、誰もが「そうあるべき」だと思える、幸福な結末にたどりつく方法ではないだろうか。

ILO(国際労働機関)が1957年に採択した強制労働廃止に関する条約をめぐり、日本が批准するための法改正案が今国会で成立する見通しになった。加盟187カ国のうち176カ国が批准済みで、未批准のままでは日本企業が海外からの投資を呼び込むうえで障壁になりかねないと経済界などが要望していた。
(中略)
経済界が条約の批准を求めた背景には、環境、社会問題などに積極的な企業を選ぶESG投資の広がりがある。海外の投資家はこうした条約の批准も、選別の基準にしているという。
強制労働禁止、日本批准へ 法改正案成立見通し ILO条約 — 朝日新聞デジタル (2021年6月4日付、太字協調は引用者)

SDGsの理念は「誰ひとり取り残さない[No one will be left behind]」である。なぜ「誰もが幸福に」ではなく、「誰も見捨てない」なのか? きっと、それだけが、「誰にもみじめな思いをさせないこと」だけが、本当の幸福に至るための唯一の道筋だからなのだろうと思う。どれだけおいしいチョコレートを食べても、それが子供たちの教育の機会と引き換えに作られたものであるなら、幸せな気持ちになんてなれるわけがないのだ。

分合主義[dividualism]

“幸せ”という気持ちに最初に気づいた人が
名前をつけたのかな それは
誰かに伝えたいほど不思議でとても愛しい
そんな感情だから
坂本真綾「幸せについて私が知っている5つの方法」 (幸腹グラフィティOPテーマ)

最後に、マクロからもう一度ミクロに戻って、個人[individual]の話をしよう。現代のリアル、「私[self]」のリアリティーはどこにあるのか、という話を。これはここ数年、僕がずっと追いかけていたテーマである。コロナ禍で世界中が大騒ぎになって以降は、その喧騒が漏れ聞こえるかどうか程度に窓を閉め、静かに教養書や漫画を読み、アニメや映画を鑑賞し、音楽に身を委ね、思索し、さらに深く、世界の深層へ、自己の深層へと潜っていった。ある程度自分の考えがまとまり始めたとき、とある漫画のセリフに「まさにこれだ」と思った。

© 橋本悠・集英社

まりな「ダメなオタクの私だけが『本当の私』でもない……そう思ったの。猫みたいに自由に生きたい私も、目上の人の言うことを忠実に聞く私も、困ってる人を放っておけない私も、どれも嘘じゃないんです。ぐちゃぐちゃに見えるけど、これが私なんです」
[幼少期回想]
母「誰かのためになることをしなさい。いい子でいなさい」
まりな「……なんで? なんでいい子でいなきゃいけないの?」
母「他者は自分を映す鏡だからよ。自分のことは鏡でしか見えないでしょう? 幸せも同じなの。目の前の人を笑顔にしたぶんだけ、自分も幸せになれる。ママはそう信じてる」
(中略)
まりな「ねえママ、今ならわかるよ。大人の言いなりに『真面目』に生きた私も、沢山もらった笑顔も、何ひとつ嘘じゃない。独りよがりの『幸せ』も、大人が教える『幸せ』も、私は知ってる」
橋本悠「2.5次元の誘惑」 10巻80話

非中央集権的に「私[self]」の根拠を負荷分散する。これは非常に現代的な自己認識であるように思う。社会が押しつけてくる役割(パラノ)も、その役割から逃亡したい自分(スギゾ)も、どちらも大切な自分の一部であり、肯定すべきものだ。誇るべきものだ。「私[self]」は自我[ego]だけで構成されているのではない。外部とのいくつもの連関、内部からの作用、多種多様な力学が複雑に絡み合った「系[system]」が自分なのだ。“individual” (個人)という単語は、否定の接頭辞 “in-” と、“dividual” (分割)から成っている。つまり「個人[individual]」とは「これ以上分割不可能なもの」の意味だったのだが、現代においてはそうとも言えなくなってきている。古代ギリシャ時代の「原子[atom]」も同じく「これ以上分割できないもの(“a” 否定 + “tom” 切る = 切れないもの)」の意だったのに、現代においては分割可能なのだから、個人[individual]も分割できてもおかしくはない。2032年の近未来を舞台にしたアニメ「攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG」では、個別主義者[individualist]と呼ばれる政治活動家たちがいたが、現実の2021年においては逆の思想があらわれ始めた。「個体[a part]」ではなく「部分[parts]」。「別々[divide]」ではなく「集合[unite]」。分合主義者[dividualist]とでも呼ぶべき人たちがあらわれ始めたのだ。

ここまで本稿を読んでくれた人はなんとなく察しているかもしれないが、僕は言語系スキル(日本語・英語・プログラミング言語・etc)にスキルポイントを極振りしている。そのスキル群の中に「頻出語検知」というものがある(?)。このスキルに最近引っかかったのが “a part of me” (私の一部)という言い回しだ。たとえば、いまぱっと思いつくものを挙げるなら、Porter Robinsonの “Something Comforting” だろうか。ただこのように例をいくつ挙げていっても、「あなたの観測範囲でたまたま」「あなたの注意が向いているから」と指摘されるだけだろう。客観的なデータとしてGoogle Ngram Viewerを使ってみたいと思う。これは、デジタル化された膨大な書籍データを使って、本の中に出てくる単語・言い回しの年別頻出度をグラフ化してくれるサービスだ。たとえば、 “virtual reality” であれば、’90年代の第一次VRブーム、そして’10年代以降の第二次VRブームと綺麗に重なっている。これはかなり正確に世相を反映したグラフになっていると言える。と前置きした上で、 “a part of me” のグラフを見てみよう。

Google Ngram Viewer — “a part of me, a part of you, super-ego”

比較対象として “a part of you” (あなたの一部)と、近接する単語である “super-ego” (超自我)を添えておいた。 “super-ego” はフロイトが定義した単語なので、フロイト以後にブームがあり、20世紀後半からは使用頻度が下がっている。 “a part of me” と “a part of you” は言い回しとしては昔から存在していたものの使用頻度は少なく、20世紀末になって急に増え始めている。特に “a part of me” は指数関数的な増え方だ。僕はここに「現代人の自己認識の変化」を見出す。「私[self]」は他から切り離された「個[individual]」であるという認識から、さまざまな「部品[parts]」の集合と連関からなる「系[system]」であるという認識への変化だ。僕がずっと追いかけているアメリカの3DCGアニメ、RWBYのボリューム8はまさにこれがテーマのひとつとなっていた。

© Rooster Teeth Productions, LLC.

When you’ve been at someone’s side for so long, after a while they become a part of you. But that’s just it. They’re only a part of you. Don’t forget about the rest.
誰かのそばに長く居続けると、その誰かは次第に自分の一部になっていく。でもそれだけのこと。それはあくまで自分の一部でしかない。他の部分を忘れてはいけない。
RWBY Volume 8, Chapter 3: Strings

このセリフを言っているキャラクターはDVパートナーとの関係を断ち切った過去がある。DVパートナーが植え付けてくる根拠なき罪の意識に心の全領域を支配されかけたとき、それをどのように乗り越えたかを語っているのだ。この言葉を起点として、ボリューム8では「自我とパターナリズム」「人の魂はどこに宿るのか?」といった、現代における個人[individual]の自己認識のあり方に焦点が当てられていた。そしてボリューム最終話で一応の答えを出すのだが、それがあまりにも飲み込みにくい内容だったため、見ていた人はかなりの精神的ダメージを受けたようである。配信直後はTwitterもRedditの感想スレッドも重苦しい空気になっていた。かくいう僕もしばらく寝込むレベルのダメージを受け、感情の持っていきどころがなく悶々としていたのだが、少しずつ咀嚼できるようになり、さらにそれを消化するためには自分でどうにかして言語化する必要があるのだと気づいた。

おそらくRWBYを見ていないと意味がわからないと思うので読む必要はないが、こうして僕は人生初の二次創作を、たいして得意でもない第二言語で書いたのだった。どうしても日本語では書けなかったのだ。日本語圏のRWBY二次創作もたまに見るし、そこでキャラクターが日本語を喋っていても特に違和感はない。このキャラクターは日本語ならこういう言い回しをするだろう、みたいなお約束は僕も知っている。非公式日本語字幕の前段階であるRWBY日本語Wikiの翻訳作業には僕も参加しているのだから、完成した字幕で見ている人よりも詳しいかもしれない。しかし、僕の中にいるRWBYのキャラクターたちは、決して日本語で喋ってくれないのだ。英語でしか喋ってくれない。その理由は、そもそも言語というものが、思考体系そのものだから、なのだろう。僕は日本語を第一言語としているので、普段は日本語で思考するのがいちばん楽だ。英語で思考するのは窮屈に感じる。しかし、RWBYのキャラクターたちが使うのは当然ながら英語の思考体系なので、それを模倣しようとするときには、日本語で思考する方が窮屈に感じ、英語の方が楽に、すんなりと言葉が出てくる。ここに、言語習得の謎が隠されているように思える。

第二言語を得ることは、まったく新しい思考体系を得ることだ。新しい思考体系を得ることは、第二の人格を得ることに等しい。そしてそれは、他人の言葉・思考をコピーすることによってのみ果たされる。今回わかったのは、二次創作では自分が喋っているのか、キャラクターが喋っているのか、もはやわからなくなるということだ。これは自分の思考なのだろうか? 自分以外の誰かの思考なのだろうか? 次第にそんな疑問も薄れ、それは完全に自分の言葉に、自分の思考になっていく。つまりそれは、自分以外の誰かの言葉・思考が「自分の一部[a part of me]」になるということだ。

取り込むのが難しい言葉・思考もある。消化どころか咀嚼さえできず、口の中に含んだまま進むことも戻ることもできなくなってしまうこともある。それは、口の中に含んでいるものが、自分の認識の枠組みを超えているからだ。それを咀嚼し、嚥下し、消化し、自分の一部[a part of me]にするためには、現行の認識の枠組みを一度バラバラに解体し、再構築する必要がある。それはとても勇気と体力のいる作業だ。バラバラに解体したあとで再構築できるかどうかもわからない。再構築したところで対象を取り込めるようになるかどうかもわからない。すべては賭けだ。しかし、理解できないものを理解する営みとは、まさにこういうことだろう。既存の認識の枠組みに押し込めて理解したつもりになっても、それは真の理解には程遠い。自分の理解を超えているものを理解するには、自分が変わる以外にないのだ。一般的に、考え方の凝り固まった大人ほど言語の習得に苦労し、考え方の柔軟な子供ほどすんなりと習得できる。それは、自分の認識の枠組みを破壊できるか否か、という違いである。生まれたての赤ん坊は世界を認識できない。世界を認識する枠組みを持っていないからだ。しかしだからこそ、破壊しなければならないものがないからこそ、周囲の人間の言葉・思考を容易に取り込める。そうして世界を認識する枠組みを構築していく。そうして世界を認識できるようになっていく。ここに、人間の意識の謎が隠されている。

では、意識はどのように生まれてきたのだろうか。重要な点は、意識とは生まれつき持っている生物学的機能ではないということだ。むしろ、意識とは後天的に個人に伝授される文化的機能であるのだ。あるいは、こうも言い換えられる。意識とは、文明により個人にダウンロードされるソフトウェアである、と。
では問題は、意識というソフトウェアはどのような方法でダウンロードされるかということだ。よく聞け。よく読め。いまここに、その答えを記す。
《意識はアイドルによって個人へとダウンロードされる》。
我々がアイドルを見るとき、しばしば、自己同一化をする。頑張って歌い、踊り、トークするアイドルを自分に重ね合わせ、その努力を称えて、明日から自分も頑張ろうという気になる。
ここでの『自己同一化』とは、ファンの意識がアイドルの意識に向かって同一化しようとしているということではない。ファンがアイドルに感動し、サイリウムを振り、その魅力に夢中になり、自らのうちにアイドルの代用品をシミュレーションした結果、はじめて意識が生まれるのだ。
アイドルはもともとアイドルが好きであるからアイドルになるものだ。ここに、意識の連鎖が生まれる。アイドルファンがアイドルになることにより、意識の増殖と伝達が行われる。
ここでいうアイドルは、狭義ではなく広義のものだ。意識の伝達をするのには、テレビに出る必要はない。クラスのアイドルでも、友達からアイドルと思われている者でもよい。また、現実の人物だけでなくフィクション上の存在も意識を伝達できる。アイドルアニメのキャラたちは、意識を伝達するミームだといえる。
草野原々「最後にして最初のアイドル」 V

人間の意識は他者をコピー(=偶像化)した結果生まれる。しかしそうして取り込んだ情報はオリジナルの完全なコピーではない。DNAの複製が一定の確率でエラーを含み、それが生命の多様性を生んでいるのと同様に、情報のコピーでも一定の確率でエラーが発生し、そのエラーの蓄積が、個[individual]を生む。もしも情報の完全なコピーが可能なら、個[individual]は生まれない。その世界では、誰もが同じ情報を持つのだから、誰もが同じ思考をする。だからコミュニケーションの必要がなく、言葉を使う必要もない。情報のコピーが不完全で、一定の確率でエラーを含み、そのエラーが蓄積されるからこそ、個[individual]が生まれ、誰もが違う思考をする。だから「私[self]」という個[individual]は、「私以外[others]」の個[individual]に何かを伝えようとする。それが言語である。その言語が文化を生み、文化がまた個[individual]を生み……。このポジティブフィードバックは、まさに世界の最深部で見たそれである。

言葉は現実の複写紙ではない。むしろ、言葉こそが現実を作るのだ。自由という言葉が生まれる前には、きっと誰も自由じゃなかった。ゆえに不自由な人間もおらず、奴隷もいなかった。自由という言葉が生まれたとき、はじめて世界に奴隷が生まれ、人々は、自由を求めて戦い始めた。幸福という言葉が生まれる前には、きっと誰も幸福じゃなかった。ゆえに不幸な人間もおらず、世界に悲惨は存在しなかった。幸福という言葉が生まれたとき、はじめて世界に悲惨が生まれ、人々は、誰にもみじめな思いをさせない世界のあり方を模索し始めた。そうして法が生まれた。国家が生まれた。条約が生まれた。国際社会を成立させる、弱々しくもたしかな「共通の言葉」が生まれた。これは決してフィクションなどではないことを僕らはもう知っている。これこそが、現代のリアル。

言葉が現実を作る。それはこのように言い換えられる。新しく言葉を覚えることは、現実を拡張すること[eXpanded Reality]なのだ、と。自分の認識の枠組みを再構築しながら、誰かの言葉を取り込み、 「自分の一部[a part of me]」を増やしていく。それは思考の拡張であり、自己の拡張だ。知らなかった概念を知り、見えなかった色を見る。世界の解像度が上がり、景色が鮮明になり、現実が、より現実感を増していく。日常の何気ない会話も、本の一行も、映画のワンシーンも、漫画の小さな一コマも、音楽の一小節も、世界の最深部で見つけた美しい言葉も、己の最深部から掬い上げた血反吐まみれの言葉も、すべてが「私[self]」という「系[system]」を構成する、「自分の一部[a part of me]」なのだ。そうして拡張され続ける現実こそが、ただそれだけが、ただそのすべてが、僕のリアリティー。

おわりに

「おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまへは化学をならったらう。水は酸素と水素からできてゐるといふことを知ってゐる。いまはだれだってそれを疑やしない。実験して見るとほんたうにさうなんだから。けれども昔はそれを水銀と塩でできてゐると云ったり、水銀と硫黄でできてゐると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう。けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いゝかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いゝかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本当だ。さがすと証拠もぞくぞく出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。紀元前一千年、だいぶ、地理も歴史も変ってるだらう。このときには斯うなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だって歴史だってたゞさう感じてゐるのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこゝろもちをしづかにしてごらん。いゝか。」
そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分といふものが自分の考といふものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光ってしぃんとなくなってぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけあらゆる歴史がそなはりすっと消えるともうがらんとしたたゞもうそれっきりになってしまふのを見ました。だんだんそれが早くなってまもなくすっかりもとのとほりになりました。
「さあいゝか。だからおまへの実験はこのきれぎれの考のはじめから終りすべてにわたるやうでなかればいけない。それがむづかしいことなのだ。けれどももちろんそのときだけのでもいゝのだ。あゝごらん、あすこにプレシオスが見える。おまへはあのプレシオスの鎖を解かなければならない。」
そのときまっくらな地平線の向ふから青しろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。
「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」ジョバンニは唇を噛んでそのマジェランの星雲をのぞんで立ました。そのいちばん幸福なそのひとのために!
「さあ、切符をしっかり持っておいで、お前はもう夢の鉄道の中でなしに本当の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐ歩いて行かなければいけない。天の川の中でたった一つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしてはいけない。」
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」第三次稿

2019年末に投稿した記事の冒頭で僕は「現代は速すぎる」と書いた。その直後にパンデミックが起こり、世界はさらに急変したが、それは同時に、濁流から離れた穏やかな支流でたゆたいながらゆっくり物事を考える機会を僕に与えた。現代社会は複雑だ。そのすべてを知ることなど誰にもできない。しかし何も知らないままでは、現代社会を生きていけない。だからこの濁流に呑まれないよう、たしかなものをつかまえようと誰もがもがくが、苦心の末に何かをつかめたと思っても、それはすぐに自らの手をすりぬけてしまう。もがけばもがくほど濁流の中へと、いやむしろ自身が濁流の一滴となってしまう。その濁流の中にセーブ(保存・保全・救済)ポイントを作るために、本稿を書き始めた。それは他人のためではなく自分のための作業だ。「考え[thought]」とは最初から自分の中にあるものではない。「考え[think]」たその結果として過去形になったものが「考え[thought]」である。文章を書きながら「考え[think]」て、それを過去形の「考え[thought]」に変えようとする試み、この「試み」をフランス語でエッセーという。エッセーとは完成された文章のことだけを指すのではない。これまで世界のどこにも存在していなかった言葉、自分の中にすら存在していなかった真新しい言葉を世界に顕現させる試みそれ自体なのである。

こうして「エッセー(試み)」した結果として本稿は「エッセー(随想文)」となった。その過程で、折にふれて書き残していた思考メモや、本の一節を切り貼りしたスクラップ帳を読み返しながら、自分の考えはここ数年でこんなにも変わったのかと驚かされた。人はいつでもいまこの瞬間の自分の考えが「あたりまえ」だ。それこそがスタンダードなのだから、その基準に完全一致するいまこの瞬間の自分の考えは、「あたりまえ」だと認識さえできないほどに「あたりまえ」だ。しかし1年前や2年前の考えは、その「あたりまえ」から少しずれている。10年前ともなるともっとずれているだろう。そのころに自分が書いた文章を読み、過去の自分の「あたりまえ」と現在の自分の「あたりまえ」のズレを認識することで、いまこの瞬間の「あたりまえ」をメタ視点から見ることが可能になる。それは、たとえるなら、過去に自分が作ったセーブデータをロードするようなものだ。過去から未来を「振り返る」ことで、本来認識できるはずがない現在の「あたりまえ」を認識することが可能になる。そうして過去の「あたりまえ」を参照しながら現在の「あたりまえ」を認識して書かれた本稿もまたひとつのセーブデータとなる。1年後か、5年後か、10年後かわからないが、未来の自分がこれをロードして、その時点の「あたりまえ」をメタ視点から見る助けになる。文章とは、時間軸を自在に行き来するための媒介なのだ。

これを読んでいるのは誰なのだろう? 未来の自分か、過去の自分か。まだ時間は過去から未来に向かって進んでいるのだろうか? 2021年東京渋谷、いまここにいる僕は、どちらに向かって進んでいるのだろう? 過去か? 未来か? もはやそれは問題ではない。問題は、「私[self]」という「系[system]」が更改を続けるか否かだ。もしこの「系[system]」が更改をやめてしまったら、時間は過去にも未来にも進まなくなり、完全に停止するだろう。では、「私[self]」という「系[system]」を駆動させているものはなんだろう? 太陽系の中心には太陽がある。銀河系の中心にはブラックホールがある。「私[self]」が「系[system]」であるなら、その中心には何があるのだろう? これまで数え切れないほどたくさんのものが目の前を通り過ぎていった。人が、歌が、言葉が、概念が、そのどれもが「系[system]」の内に組み込まれていった。善い[good]ものは引き寄せる。善くない[bad]ものはおしのける。どちらも力学的作用として「系[system]」の内にある。その繰り返しで「私[self]」がどんどん組み替えられていくなら、そもそも「私[self]」などというものは存在しないのだろうか? いやしかしそれなら引力・斥力は誰が決定しているのだ? 宇宙の法則? そんなものが引力・斥力を決定するなら、どうして世界はこんなにも多様なのだ? 引力・斥力のあり方すらも決定する何かがある。そしてそれは個[individual]によって違う。それこそが「私[self]」の中心、「私[self]」という「系[system]」を駆動させるもの。そう、まさにこれこそが最初の問いだった。

What is ‘good’ anyway?

僕にとっての善[good]とは何か。ここまで言葉を重ねてようやくわかった。それはずっと昔から自分の中にあった言葉、どれだけ考えが変わっても変わらなかった考え、取り除きたくても取り除けなかった呪い、不条理のマントラ、「ハッピーエンドは欲しくない」。このマントラは次の原則に基づいている。本当の幸福を求める者は、己の幸福を投げ捨てなければならない。これは自己犠牲精神などという崇高なものではない。もっとひとりよがりで、ありふれていて、くだらない原則だ。誰かのためではなく、自分自身のために、どうしても、そうしなければならない。後ろめたいんだ。チクチク痛いんだ。どれほど満たされた瞬間でもそれがずっと消えないんだ。ちっとも幸せじゃないんだよ。こんなものが本当の幸福であるわけがないだろう。だから、本当の本当に本当の幸福を求める者は、己の幸福を諦める以外の選択肢を持たない。ただそれだけの話だ。ただそれだけの不条理が、いまの僕を形作っている。

なんだかもう、どうしようもねえな、と思う。本当にもう、どうしようもないんだ。こんな世界を、それでも、どうしようもなく、愛おしいと思ってしまうんだから。

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